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だれもが、魯山人にあこがれる。 「誰? それ?」 「字が読めないんですけど」 「ってか、前フリいらないんですけど?」 「食べ物の名前ですか?」 「わかった! 『阿Q正伝』を書いた人だ!」 それは魯迅だよッ! 仕切りなおし。 だれもが、北大路魯山人にあこがれる。 魯山人と言えば、食通。 魯山人と言えば、篆刻家。 魯山人と言えば、書家。 魯山人と言えば、陶芸家。 魯山人と言えば、美食倶楽部。 「それ知ってます! 美食倶楽部って、『美味しんぼ』の海原雄山がやってる料理屋ですよねッ!」 違うッ! あ、違わない。海原雄山は北大路魯山人を見習おうとして同名の料理屋を始めたの。海原雄山は北大路魯山人の孫弟子っていう設定なの。てか、海原雄山の事実上のモデルが北大路魯山人って説があるの。 ふたたび仕切りなおし(待ったなし)。 だれもが、北大路魯山人にあこがれる。正確には、およそ料理をたしなむものは、すべからく北大路魯山人の料理にあこがれる。 料理は、芸術。 芸術は、道をきわめること。 ゆえに、人は、料理道を歩むことになる。 「だからぁ、北大路魯山人って誰かわかんないんですけどぉ〜」 待ったなしと書いただろうが。 ウィキペディアの「ここ」でも読んどけ。 私は、北大路魯山人の正統な弟子として認知されることを目指した。 手始めに、師匠である北大路魯山人の書『魯山人味道』を熟読した。そこに、西京焼きの基礎を語る文章があった。 > ○白味噌ばかりでは甘味が足りないから、相当多量に砂糖を加えること。 ○白味噌の有する水分では足りないから、冷酒を加えて、糠味噌ぐらいのやわらかさに溶くこと。 ○魚類は切り身に一旦塩を振って、塩が中身に通った時分(約五時間くらい)に程々に漬け込むこと(後略)。 ○味噌漬けの魚は焼くのが一番の良法である。焼くときに味噌から出して味噌を洗い落とす。 (中略) ○金属製のなべぶたをかぶせて焼くことは、いついかなる魚を焼くときにも利用するのがよい。 一大秘訣とでも言うべきだからである。 この気品あふれるレシピ。 文末の「言うべきだからである」が文章のどこに由来するのか、魯山人先生しか理解されておられないのだ。読者の理解なんか無視である。これでこそ、料理道。さて。 「えー、このシリーズって先生のオリジナル料理だけなんじゃないんですかぁ〜?」 読者に配慮しているようで、料理道を歩めるか。否。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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お気づきだろうか。 北大路魯山人先生ともなれば、分量の詳細は全て目分量なのだ。「糠味噌ぐらいのやわらかさ」というファジーな指示に、人は料理道を見る。 先生はなぜか「放置時間」だけは「約五時間くらい」と微妙な指示を出されている。 「約」と「くらい」という重複表現にも、料理道がある。ここでは引かなかったが、漬け込み日数は「まるニ日目から、五、六日目までがよい」とされている。料理道では、分量よりも時間経過が大切だという教えであろう。 「なべぶたを使え」という指示は、先生ともなれば炭火で焼くからである。 火が通りきる前に焦げることを極度に心配なされている様子もうかがえる。もし読者の中にも焦げることを気にする向きの人がいるなら、4の時点で水洗いしても良い。ただし、その後にキッチンタオルで水分を取るのを忘れずに。およそ料理道を極めるもの、ヘンなところに神経質であるべきなのだ。 さあ、だれもが、魯山人にあこがれる。 私も、君も、料理道を究めようではないか。 まさに、これこそ究極のメニューの名に恥じない。 「あの・・・海原雄山って『至高のメニュー』じゃなかったでしたっけ・・・」 だから、今日の一話は北大路魯山人だって言ってんだろうがよぉぉ! |
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