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僕はそのとき25歳だったろうか。彼女は24歳だった。彼女といっても「彼女」ではない。僕は交際を申し込んで断られて、そしてそれでも彼女と1ヶ月に1回以上の頻度で逢っていた。そんなによくはないけど、決して悪くない。たとえ友達であったとしても、好きな女の子とデートができる幸せ。承諾してくれる歓喜。
わりに趣味があうのか、渋い場所に遊びにいくことが多かったと思う。彼女は車をもっていて、女性にしては自分で運転するのが好きだった。もちろん遠く(といっても千葉からの日帰りなんてたかがしれている)に行くときは交代で運転した。それでも、彼女がハンドルを握っている時間の方が圧倒的に多かった。
彼女には結局、きちんと捨てられた。そういう言い方はおかしいかもしれない。でもまあ結論から言えば彼女が「彼女」になることはなかった。いくつかの伏線があって、そうなっても僕は納得できた。悔しいけど、それは僕の気持ちのせいであって彼女のせいではない。
養老渓谷は千葉のど真ん中にある。やわからな滝があり、そこから流れる川のそばに遊歩道がある。ロマンチックとまではいかなくても、水の流れる場所で好きな女の子と歩ける、それは素敵な体験だ。流れは結構強く、水深は50センチくらい。周りは木に囲まれ、ほどよい観光客。夏の手前で、緑が濃い。
僕は彼女に「捨てられ」て、彼女に全てを語る手紙を出した。僕が彼女に対して持っていた思いをつづるだけではない。それと同時に抱えていた別の女性との恋を語った。それは彼女と僕を離してしまう決定打であり、僕はそれがわかっていてそれを書いたのだ。そしてそれは僕の予想通りに決定打になった。
彼女と渓谷を歩くのは素敵だった。正直に言えば、僕が好きになった女性の中で、世間的に言えば彼女は一番目か二番目の美人だった。もちろん恋は比較じゃない。絶対の存在だ。それは別として、そんな世間の目を越えても僕はとても彼女を美しいと思った。濃い緑のなかで、水がそばに流れる。僕は彼女に恋をしていて、彼女は僕に恋をしていない。それでも、それは素敵な体験だった。川は流れが強すぎて、魚が見当たらない。魚がいればいいのに。
彼女とはもう8年くらいあっていない。年賀状のやり取りさえない。もう会うことはないだろう。彼女は幸せな家庭を見つけのだ。そこに僕が入っていく権利も、それを乱す意欲も、強奪する度胸も、当時持っていた気持ちも、もう僕にはないのだ。新幹線の通過駅。過ぎてしまえばどうにもならない。過ぎてしまえば忘れるもの。振り返らない過去。
強い流れを見ながら、僕はなぜか夢想する。そこに、隣に歩いている彼女がいることを。まるで水中の鯉のぼりのように、彼女が川床にいることを。50センチもない水深の川床に彼女が横たわっている。裸でもなく、服を着ているでもない。強く絶えない流れの中に横たわる彼女を僕は夢想する。隣に歩いている彼女のことを、僕は夢想するのだ。
彼女とは男女の関係になれなかっただけあって、彼女の肉体に関する記憶や思い出がない。一度だけ何かの拍子に手を取った記憶がある。でも、冗談のような形をとっても彼女の体を触ることはできなかった。性的な意味ではなく、単純に僕と彼女は物理的な接触を持たなかった。そして残念なことに、あるいは幸福なことに、唯一握ったその手の感触は思い出せない。
その遊歩道には終点がない。引き返すだけだ。15分ほど歩いて引き返すことにした。どこまでも歩いていけるわけもない。川床に彼女がいる気配を知り、そして自分の横に彼女が歩いていることを同時に把握した。ありえないこと。物体は同時に一箇所しか存在しないこと。いまここにいる彼女は、隣に歩く彼女だということ。
数年前の秋に、養老渓谷を再訪した。そして僕はそのときのことを思い出した。僕は正直にその女の子に過去を語る。うまく説明できなかったけど。
そのとき心に誓う。いま、隣にいる女の子を失ってはならないこと。川床には今となっては誰もいないこと。いま、自分の隣にいる大切なひと。それだけを考えること。これはきっと、新しい恋なんだ。風化させてはならない。恋は全て初恋。
養老渓谷は千葉のど真ん中にある。真ん中ってどこにも行けないんだ。
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