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著者に興味があって手が伸びる本もある。
それが作家であることもあれば、そうでないこともある。好きな作家の本は
新作を楽しみに待つことができるが、作家でなければ「本屋での偶然の邂逅(
かいこう=めぐりあうこと)」を待つしかない。
1、藤沢秀行『野垂れ死に』
引退した碁打ち(囲碁棋士)である。棋聖という囲碁界最重要のタイトルを
6連覇し、名誉棋聖の称号を得たほどの男である。
僕は将棋が好きだけど囲碁のことは全くわからない。ルールも知らないし、
誰が強いのかも知らない。でも藤沢秀行だけは知っていた。猛烈な遊び人とし
て有名だったのだ。
彼の存在を知ったのは、将棋棋士の米長邦雄の本の中だった。米長先生も「
将棋界の遊び人」として有名というわけで、「遊び人の大先輩」として藤沢が
紹介されていたのだ。
遊びとは、酒、バクチ、女である。
>ウイスキーを二本飲もうが三本飲もうが、一晩寝れば大丈夫だった。
>おそらく最大時には、負債は三億円くらいに膨らんでいたのだと思う。
>オレには女房のほかに面倒見なければいけない女性が二人いるんだよ
飲む、打つのほうはそれほど珍しい話でもないと思う(あくまで、『それほ
ど』だけど)。しかし買うのほうは度が過ぎる人である。
正妻のモトさんとのあいだに子どもが3人、
<中野のひと>とのあいだに子どもが2人、
<江古田のひと>とのあいだに子どもが2人。
正妻とのお子様は別として、そのほかの4人もキッチリ認知したのは立派だ
と思う。しかし、<中野のひと>と藤沢とモトさんは50年の付き合いで、3
人一緒に旅行に出ることさえあるという。どーなってんの。
2、田村秀行『だから、その日本語では通じない』
僕が受験生時代に習っていたYゼミの元現代文講師である。今は「フリーの
日本語総合講師」という肩書きになっている。
習っているときは特に意識をしなかったけれど、田村先生は僕より18歳年
上である。ということは19歳の僕が習っていたとき彼は37歳。そのときは
「ヘンなおっさんだなあ」と思っていた。今の僕は34歳。人は永遠の環の中
の一部に過ぎない。
今の肩書きから推察するに、・・・まあそういうことなのである。15年前
にはYゼミで衛星授業を担当するほどの「業界のスーパースター」の一人であ
ったわけだが。このような面から考えても、予備校講師という職業が世間的に
まともに評価されていない「あだ花」にすぎないことがわかる。
日本語総合講師ということで、どのような日本語が通じないかを論じる本で
ある。
>《正しい》とは、そう主張する人が使っている言葉のありかたにすぎない
なかなか興味を持てる主張だと思う。ありがちな「正しい日本語」を推進す
るものではなく、ひたすら「通じる日本語」のありかたを追求している。
僕も話す商売なので、説明する場合には「どうすれば通じるか?」を考えて
発話している。受講生の皆様はご存知のように、僕のトークには様々な人格が
登場する。です・ます口調になったり、乱暴モノになったり、コギャル口調に
なったり、だよね系トークになったり、体育会系男子口調になったりするのは
「伝える」ためである。そういう意味で、「正しさよりも通じることが全て」
とする本書には強い共感を覚えた。
3、辻仁成『幸福な結末』
作家。芥川賞作家であり、古くは歌手でもあり、映画監督でもある。このエ
ッセイのシリーズで紹介するのは2回目。
以前にも書いたようにこの数年は非常に高い頻度で新作小説を発表している
。半年に1回はハードカバーで書店に並ぶわけであり、確実に新作を読める。
まずまずの確率(3冊に1冊?)で、まずまずの作品(読み返そうと思う?
)を提供してくれる作家はそれほどいないと思う。小説が売れない理由は人々
が本を読まなくなったからではない。小説が面白くないからだ。それだけに辻
の新作には心が躍る。
>絶望について。
これは人生の基本だと思う。わたしたちは普段、都合よくそのことを忘れて
しまっている。
小説のつくりとしては、少し読みにくい。1人称を使う登場人物が物語の語
り手になる作品は多いが、その中に独白として作家の思想が吐露(とろ=思っ
ていることを語ること)される。
角膜移植を受けた主人公は、角膜に残された「男の残像」を見るようになる
。その男を探す旅が始まる。
そしてタイトル。君はどういう結末を予想するだろうか? 「残念ながら」僕の
予想ははずれた。いい意味で、残念だったのだ。
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