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そもそも、甲子園、正確には全国高校野球大会というのは偽善である。
もはや国民的スポーツとは言えなくなった野球だけにスポットライトを当てることに意味がない。いまどき野球だけに強い関心を持っているのはおっさんぐらいである。卓球や新体操や弓道などに青春をかける球児(弓道の選手の呼び名がわからんな)がカワイソウじゃないか。
春季大会の「21世紀枠」というのも意味がわからない。根拠が不明であるのはもちろんだが、こんな枠を追加で認めていればキリがないではないか。
たとえば22世紀になったら「22世紀枠」が出現するのか? もしもオリンピックみたいに存続期間が長くなったら、「138世紀枠」まで用意するのだろうか?
反論があるかもしれない。22世紀になったら「21世紀枠」は廃止になるのだと。アタマが悪いのもたいがいにしていただきたい。それならば始めから「××枠」を用意すればいいではないか。21世紀だけ特別であるはずがない。
話を戻して、本来の県代表より「・・・世紀枠」の参加校が多くなってもいいのか? 21世紀だけ特別扱いする理由はない。21世紀と22世紀は同じ価値である。いや、もっと論を進めれば21世紀の今の時点で「26世紀枠」などを設けてもいいかもしれない。世界の滅亡がなければ26世紀は来るはずだし、26世紀だけ虐げる理由もなければ21世紀だけ敬う意味もない。したがって21世紀枠は廃止するべきである。
さらに笑えるのが「希望枠」である。
いつから始まったのか知らないが、2005年の春季大会には存在した。そもそも関係者に問い詰めてみたいが、「希望」とは客観的な言葉なのだろうか?
春の大会は「センバツ」と呼ばれ、各地方から「選抜」された高校が対戦する。それで「センバツ」から漏れてしまった高校を救ってあげようという措置なのかもしれない。
ではその「希望枠」からの選抜にも漏れてしまった高校の立場はどうなるのか? 選ばれない高校があるからこそ「選抜」である。大学入試を例に引くまでもなく、選ばれた勝者と選ばれない敗者がいるから選抜という言葉が使えるのだ。
さらにおかしいのは、「希望」枠という言葉である。なぜ希望だけ特別扱いされる意味があるのか? 特別な枠を求めることなんていくらでもできる。
・「絶望枠」(我が母校千葉県立K府台高校が永久に甲子園に行けないであろうことに敬意を示す枠)、
・「平和枠」(長崎と広島から1年おきに無作為抽出する)、
・「拉致被害枠」(日本海に接する県から選ぶ)、
・「東京枠」(本来の出場高校に予選で負けた高校から選ぶ)、
・「屯田兵枠」(北海道開墾者の祖先が所属する部員がいる高校から選ぶ)、
・「カレー枠」(海軍カレーを自画自賛する横須賀市内の高校から選ぶ)
などなど、いくらでも根拠をでっちあげることができる。その中で「希望枠」だけ特別扱いする意味がないではないか。
このように、甲子園の高校野球には矛盾や問題点が多すぎる。即座に改めるか廃止する必要がある。
さて、今日は僕の休日である。TVをつけたら甲子園をやっていたのでノンビリと観戦する。クーラーの風にあたってウトウトしながら観る高校野球はステキだ。
このように、私にも矛盾や問題点が多すぎる。困ったものだ。
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