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大学2年生になってから待望の高校生担当になった。とは言っても小さな塾であり、指導できる科目が少ないので中学生も教える。
1990年過ぎという「バブル経済」(という好景気の期間があったのです)が終わりかけるころの時代なので、その塾はなかなかに景気が良かった。講習の時期になると、教室数が足りないので新規の生徒様をお断りするなんていうこともあったようだ。すごいですねえ。
しかしまた同様に小さな塾にすぎないので、それほどレベルの高い高校生は来ない。ハッキリ言えば予備校の授業や雰囲気についていけない生徒様たちである。志望レベルは日大くらいまでという感じである。
大まかに言えば高校生は3種類に分かれる。
1、まずまずのレベルで日大程度が志望だが、予備校が苦手
2、高校レベルは低いが頑張っているので、なんとか四大に行きたい
3、短大志望。先生と一緒に勉強してほしい
時代がわかるのが「四大」という表現である。もちろん4年制大学のことなのだが、短大とのカウンターパート(対応する、横に並ぶもの)という概念があったわけだ。言い換えればそれだけ現在は短大の価値が下がってしまったということでもある。
3の「一緒に」というのは、自分では勉強できないから、塾に通って先生の前で勉強しよう、ということである。それほど難しい受験ではないから、学校の勉強をきちんとやって(宿題を見てあげることも多かった)、受験レベルで必要なことを教えてください、とう感じである。微笑ましい時代だ。
高校生はさすがに生徒が少なかったが、このころ(92年あたり)はある程度の数になってきたので集団授業も開設するようになった。と言っても教室が狭いので多くて10人程度である。
しかし、黒板(ホワイトボードだけど)を使って授業をするとなれば一応は「講義」である。最上位はベテランの先生が担当し、ミドルレベルは僕の担当になった。ミドルレベルとはつまり生徒層が一番厚く、人数が多い。いわゆるボリュームゾーンである。当然のことながら収益を最もあげるクラスであり、人気がある先生が担当するのが普通だ。
まあわかりやすく言えば僕が一番人気があったわけだ。
生徒は増えた。教室は満席になり、僕のクラスは教室の仕切りをはずして「大教室」にすることが基本になった。と言っても20人足らずなんですけどね(笑)。
しかし僕の英語力はあやしいものだったので、予習にすごく時間がかかった。大学生なのに1週間に12コマもやったりするから予習が追いつかない。大学の授業の空き時間は常に図書館に行って予習をした。いわゆる「塾講師バイトにはまった」大学生になってしまったわけだ。
英語力には自信がなかったが、教える能力が自分にあることだけは自覚できた。教えたいという熱が自分の中にあることを知ったのだ。もう他のバイトをする必要もない。そして僕は大学4年生になり、順調に卒業を迎えることになった。ここで僕のバイト人生は終わりを告げる。
やっぱり、バイトは楽しいです。
追記:このシリーズはこれで終了し、後日の「予備校講師になるまで」シリーズに続く予定です。
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