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春樹の作品に僕が没頭した理由はたくさんある。長編小説の素晴らしさは言
うまでもないが、意外に重要な部分を占めているのはエッセイである。
春樹自身が「生活のためにこそこそ書いている」と書いたことすらあるエッ
セイ。
春樹のエッセイは大まかにいって3種類に分けることができる。
1、自己の内省を目指した真面目なもの
2、日々に感じたしょうもないこと書きつづるもの
3、エンターテイメント、あるいは文章修行(?)
「1」タイプのエッセイの筆頭は『やがて哀しき外国語』である。
90年代半ばにプリンストン大学の客員教授として滞在したときの記録だ。
そのタイトルのように、外国語を学ぶことで得られる喜び(少し)と哀しみ(
たくさん)と日米の文化比較が中心である。
ただし「文化比較」と言っても、彼自身が「比較文化論をやる気はないけれ
ど」と書いたように、その内容は難しくいえば精神性、易しく言えば具体的な
有様を書いている。
たとえば、日本バッシングがあったときにアメリカで流行したステッカーは
「日の丸弁当に似ている」という感じである。なんのことかわかりますか?
ずば抜けた描写力を誇る春樹でさえ、説明が難しかったのか『やがて』の中
ではイラストを書いて説明している。興味のある人はその章だけでも立ち読み
してください。
僕が愛好するのは「2」タイプである。春樹は『村上朝日堂の逆襲』の中で
こう書いている。
>家事の鉄則は流しの中のものを片付けることだ
春樹のエッセイに頻出する1つのテーマは、日常の中に法則性を見つけ出す
ことである。あるいは「あるべき姿」を見つけ出し、それを実践する能力と努
力である。
僕はこの表現にあまりにも感心したので母親に質問したことがある。「家事
の鉄則って何だと思ってる?」と。
彼女の明確な答えはなかった。そこで先の内容を伝えてみたら「そんなもの
かねえ・・・」と言っていた。普通に暮らす世間の人には、家事に鉄則を見つ
けようとする視点はないものである。
「3」タイプは数が少ない。古くは『ふわふわ』、最近では『またたび浴び
たタマ』である。たいていはイラスト作家との共作であるせいか、値段が高い
。しかも内容がしょうもない。こんなの売るんじゃねーよと言いたくなるが、
買ってしまう自分が悲しい。
なかでもディープ中のディープは『タマ』である。なんと全編が「オリジナ
ル回文の紹介とそれに関する省察」である。回文ってわかりますか。
「たけやぶやけた」
逆から読んでも
「たけやぶやけた」
のアレです。わりに古典的な言葉遊び。
『タマ』はタイトルがそうであるように、44個の回文が載せられている。そ
の内容があんまりにもひどいので引用する。
>ふたがなんだだんながたふ
(蓋がなんだ! 旦那がタフ)
読者は、たとえば僕は
「だ、だ、だから何なんだ?」
と怒り――しかし脱力
感を小さく伴う――を感じて、ページをめくる。そこには春樹による自作解説
がある。
>こういう人っていますよね。「ねえ、あなた、この蓋堅くて開かないのよ。
開けてくれる?」なんて奥さんに言われると、「よしよし、蓋のことなら俺に
まかせとけ!」とその気になっちゃうご主人。腕力だけには自信があります。
とにかく蓋なら何だって素手でほいほい開けちゃう。フェリーニの『道』の怪
力男みたいですね。
評判がたって、そのうちにマンションじゅうの奥さんが、「すみませーん、
谷口さん、うちの蓋も開けてくださらないかしら?」なんて、蓋の堅い瓶を持
ち込んでくる。そういう人生もなかなか楽しそうだ。
読者はため息をついて――また同時に大きな脱力感を抱いて――ページをめ
くることになる。
このような小さな物語作りをしながら、春樹は自分の中にある大きな物語を
探しているのだろう。
追記:各エッセイについては後日。
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