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最近はこんな読書14 4月23日

  『下流社会』がベストセラーになったことが原因か、あるいはそれが結果なのか、とにかく社会のレベルが下がっていくことに関する本がブームのようである。


・『学力があぶない』大野晋・上野健爾共著

  2001年発行の「学力低下・ゆとり教育危惧」に関する本である。
  個別に書かれている内容は良いのだが、全体とした一貫性のなさが素晴しい。特に最後の2章で共著者の対談内容は話が全くかみ合わず、何のための対談なのか意味不明というあたりも爆笑である。
  ちょうどその翌年の2002年度に小中学校の指導要領改訂が施行(高校は2003年度から)されるタイミングをみて出版したのだろう。それにしてもまあ、岩波新書にしてはずいぶんヤッツケ仕事な内容である。

  批判は置いといて、笑えた箇所。個性偏重の流れについて。

>今は個性の大安売りなんですよ。
(中略)教室というのはドアから出入りするのがあたりまえですね。(ところが)窓から毎日出入りしている子がいる。いくら言ってもきかないから、とうとう親を呼んで言った。
「おたくのお子さんは窓から出入りしています」。
「先生、それはうちの子の個性です」。

  なるほどなあ。
  個性というのはスタンダード(基準)をクリアした上で発揮されるべきもの、という観点が欠落しているわけだ。
  予備校の教室でも「遅刻してきて大きな音を立てて着席する頭のおかしい生徒様」が散見されるけど、こういう現象の延長にあるのかもしれない。


・『しのびよるネオ階級社会』林信吾

  本にはコシマキと称されるものがついていることがある。
  本の帯とも呼ばれるが、その本を宣伝する文句を入れるためのものである。本書ではこうなっている。

>「下流社会」なんてまだまだ甘い!

  ふーん、いわゆる二番煎じモノかあ。
  ざっと立ち読みすると笑える内容のようなので購入する。奥付(正式な書名や出版社や発行日などが書かれているページ)を見ると、初版は2005年4月。
  あれれと思って調べてみると、『下流社会』は2005年9月。『ネオ』のほうが古いのにコシマキに後発の『下流』を使っているのか。本を売るのって大変なんだな。

  さて内容だが、時間のない人は最終章だけ読めばいい。
  笑いたい人は、全部読めばいい。
  イギリス礼賛本にウンザリしている人は、第5〜6章だけ読めばいい。

  本書の結論は『下流』と同じく機会平等の提言である。
  本書のタイトルは、イギリスの階級社会に似たものが日本にも現れようとしている、ということを示す。要約すれば、

イギリス
1、貴族
2、中間層エリート
3、労働者

日本
1、生まれつき環境に恵まれたエリート
2、学歴社会を勝ち抜いてきたエキスパート
3、その他大勢の年収300万以下のフリーター

という階級社会である。しかも今の日本では2の中間層が手薄になっていて二極化が進んでいる、というのはどの本でも出ていることか。そういう意味では、それほど読む価値があるともいえないかもしれない。

  ただし、著者本人の生き様は興味深く読める。大学を除籍になってフリーターを経験して作家・ジャーナリストになったけど、年収が少なくてやってられんよ、という話である。
  ある意味で予備校講師に似ている、というのは僕の思い込みなのかしらね。


・『羞恥心はどこへ消えた?』菅原 健介

  場所を選ぶことなく地べたに座り込む人々のことを「ジベタリアン」というらしい。ジベタリアンや、電車内で化粧をする女性、人前でキスをする人たちに羞恥心はないのか?
  これが本書のテーマである。

  彼らの行為が法律に触れるわけではない。総武線各駅停車の、開かない側のドアによりかかるように座り込んでいても、誰にも迷惑はかからない。
  また一方で、その行為に眉をひそめる人々(たとえば僕)がいる。彼らに対して持つ嫌悪感は、恥ずかしい行為を見てしまった羞恥心に由来とするいう。自分が恥ずかしいことをしたためではなく、恥ずかしい行為を目にすること自体が恥ずかしいのだ。

>しかし、今は違う。近所の人はタニンだ。どう思われようと実害はない。タニンといえば、「旅の恥はかき捨て」の領域だ。別に関係ないのだから、好きなように振る舞える。ジベタリアンたちの心理には地域社会のタニン化の影響が色濃く感じられる。

  筆者は自己を守る防具としての「恥」の機能を説明し、それが機能するための社会構造とその変化について述べている。
  なるほど、社会意識が変化すれば個人意識も変化するのだ。たとえば、恥ずかしさのようなものですら。
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