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項羽よ、劉邦よ! 6月27日

  読んだことのない小説家の小説に飛びつくのはかなり勇気がいる。
  僕は保守的な人間であるから、まず警戒心が強くてなかなかそういう作家の本を手に取らない。

  第一に、その作家を気に入ることが非常に少ないと経験的にわかっているからだ。
  たとえ彼・彼女が人気作家であったとしても、自分のお気に入りになるかどうかはわからない。正確には、お気に入りにならないことの方が多いのだ。

  第二に、その作家を好きになってしまった場合に面倒なことになるからだ。
  間違いなくその作家の「追っかけ」になってしまうのだ。もちろん「追っかけ」と言ってもサイン会や講演会に行ったりファンレターを送ったり、あるいは住所を調べ上げて家を観に行ったり後をつけてみたりする・・・わけじゃなくて、その作家の本を全て読まざるをえなくなってしまうということだ。これが一人の作家なら「好きな作家が増えた」ということで喜ばしいかもしれないが、それが作品ということとなると非常に厄介だ。


  たぶん僕が高校生のころだから、もうずいぶん昔のことになるけれど、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』にひどく傾倒したことがあった。あいまいな記憶によれば、高校1年生の国語の教科書の漢文の時間に勉強したのがきっかけかもしれない。

秦を滅ぼし、西楚という国を作りあげた項羽。同じく戦国武将であった劉邦が彼に謝罪に行くシーンである。劉邦の申し開きが項羽に理解されなければ、劉邦はその場で殺される。

  項羽の義理の父の立場にあるハンゾウという人が「亜父(あほ、と読む)」と呼ばれていた。父親に次ぐ人という意味なのだが、その言葉に興味を引かれて(理由はよくわからない)司馬の本を買ったのだ。
  猛然と3回以上読み返す。そういうときに限って高校という場所には定期試験があり、もちろん試験よりも読書が優先される。これだけでは足りぬと他の司馬作品に手を伸ばす。

  そしてその作品たちが僕のお気に入りになればまだ良かったのだ。
  ご存知のように司馬は歴史小説のとんでもない大家だから、膨大な数の作品が文庫本で入手できる。しかもどれも大作が多いからそんな簡単に読み終えることはなかろう。しかし、あろうことか司馬の他の作品が全く面白くない。どうなってるんだと『項羽と劉邦』に戻ったらやっぱり面白い。ぞくぞくするほどだ。おかしいなあと足りない頭の載った首をかしげていたら気がついた。


そうだ。僕はこの作家を気に入ったのではない。そこに描かれた世界(前漢が成立するまでの激しい戦争の時代)を愛しているのだ。


  悲劇は始まる。ありとあらゆる「項羽」と「劉邦」を描いた作品をあさるしかない。
  もちろん彼ら2人の英雄の名前が書名になっていればいいのだが、それほどの有名人(たとえば徳川家康とか)ではないからあたりをつけてその時代を扱った作品を読むしかない。三国志関係だと関連した本は多いはずだが、秦の末期から前漢時代を描く本となるとかなり限られてくる。
  現代のようにインターネットで検索するわけにもいかないし、誰に相談することもできない。ただひたすら本屋と図書館で「目」を使って探すだけである。

  あまりにも本の数が少ないから、最終的には「書き下し文」がついた漢文まで読んでしまった。もうここまで来ると病気である。「項羽と劉邦」自体が時代小説として成立する元になった文章を読むわけだ。その漢文を通して、あるいは司馬の目を通して、「項羽と劉邦」に迫りたいと思う。それはかなわぬ夢、かなえたい夢。


  だから読書っていいじゃないか。定期試験の勉強なんか、そんなもの、どうだっていいじゃん。
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