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世の中研究家→達人への道5 9月2日
  ある授業における、僕の説教。

「誰も名前を知らない、定員割れの大学にいって、それでお前らの人生はいいのか?」

  僕が心配しているのは「名前が漢字で書ければ入れる大学」に生徒様を合格させていていいのか、ということだ。


  つい先日、T大学(福岡県にある私立大学)の廃校が報道された。
  4年制の私立大学が廃校になるのは戦後で(たしか)2例目である。ついに大学が、本当に潰れる時代がやってきてしまった。あなたが入学した、あるいは卒業した大学がなくなってしまう=忘れ去られてしまうのである。

  言うまでもなく、少子化の急激な進行で大学経営はどこも危機的な状況にある。
  少子化に歯止めはなく、大学進学率も上がらなくなった以上、廃校になる大学は続出するだろう。一般論を言えば、無名の、誰でも入れる、定員割れを起こしている大学から順番に消えていく。無名であるために、その大学の名前は誰の記憶にも残らない。


  考えてみてほしい。
  あなたが名もなき大学に入って、それが5年後に廃校になり、あなたは36歳になったとき、今は亡き大学(つまり13年前に消滅しているのだ)を最終学歴にしなければならなくなっている。その学歴に価値はあるのだろうか?

  つまり、卑近な例を使えば、現状の偏差値が低い受験生こそ焦らなければならない。
  誰でも入れる大学に入っても、ほとんど意味はない。むしろ、今つかった時間やお金が無駄になるぶんだけ、人生の視点からはマイナスになってしまう。だから少しでもレベルの高い、多少でも競争率の高い大学に入ったほうが人生のリスクは小さくなる。たかが受験勉強であるからこそ、いま頑張らないと面倒なほう方向に人生は転がっていってしまう。余計なお世話だとは知っているけどね(-_-)


  この手の話をすると、やおら識者だエセインテリだかが言い出す。

「どこの大学に入ったかではない、何を学んだのかが大切だ」

  実に正論である。
  そして、何も語っていない。夢だけ持たせて、責任を持たない発言の典型である。

  この手の発言をする人は、たしかに「大学に入って何かを学んだ」という実績を持っているのだろう。その証拠に、僕のように大学で何もしなかった愚民はこういうことを言わない。

  しかし翻って言えば、まだ何も成し遂げていない若い人に言ってもムダである。
  いや、完全にムダだと言うのではない。たいていの場合、ムダだということ。夢を見るだけなら誰でもできる、夢を見せるだけならなおさらだ。


  まず大学に入ったところで、そこから何かを学ぶ可能性は極めて低い。
  1年生のときはサークルにおぼれ、2年生ではバイトにおぼれ、気がつけば3年生の夏から就職活動、4年生の春には必死になって手に入れた内定を抱きしめて残り少ない学生生活を楽しむ。これが9割以上の大学生の現実である。決して悪く言っているのではなく、日本というシステムに組み込まれた大学の姿である。つまりそれで当然である。

  もちろん大学で何かを学ぶ人もいるだろう。
  それがどこに行きつくのかは別として、その学びを自分のアイデンティティーの1部として人生を走っていく人もいる。繰り返すが、僕のように何もしなかった愚民は頭を垂れるのみである。まぶしくて直視することができない。


  しかしもちろん、そのように「大学で何かを学ぶ人」は極めて少ない。
  失礼なことをバリバリ言うが、受験程度でヘコたれるような人間がその仲間入りをする可能性は1%もないだろう。もしその人に天才が宿っていたなら可能だろうが、エジソンやピカソになれた人は0.01%もいないのだ。

  そのような「ほっておけばただの人」にすぎない若者に向かって、「どこの大学に入ったかではない、何を学んだのかが大切だ」などという正論を浴びせるだけでいいのだろうか。
  野球にしか興味が持てない小学3年生に向かって「きみも頑張ればイチローになれるよ」というくらいなら大人の冗談として理解してやってもいいが(イチローになんかなれないのが普通なのだが)、もう数年で選挙権を得る大人の直前の18歳に向かって、そんな正論ばかりで良いはずがない。

  大人は、自分の経験から「あまりにも悲惨で夢がない卑小な人間の限界」を教えなければいけない。夢見るだけではいけない(将来だけをアテにしてはならぬ)、今やるべきことを今やるしかない(過去はアテにできない)、と教えるべきではないのか。


  話を戻すと、「誰も名前を知らない、定員割れの大学には行くべきではない」のである。
  正論を吐く大人の意見は、話半分で聞き流さなければいけない。それはまるで、この文章を「そうかなあ・・・?」と懐疑の気持ちを持って読んでいるあなたがそうであるように。

  正(せい)と邪(じゃ)をバランスよく取り込んでいく。
  それが世の中の姿ではないだろうか。あらまほしくなくても、受け入れざるをえないというモノであっても。
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