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秋ということで、少し落ち着いて読める本たち。
頭をつかって、真剣に読む。自分の世界観の一部を補強し(または変化させ)
、あるいは少し悲しくさせるような、しっとりとした本だち。
『生きながら火に焼かれて』 スアド
ノンフィクション、つまり実際にあった話。
中東シスヨルダンの村で、17歳の少女が恋に落ちて妊娠する。しかし、その村
では女性は全て奴隷同然の扱いであり、処女でなくなった未婚女性などは犬畜生
以下に扱われる。著者の両親に命じられた義理の兄が、著者を火あぶりで殺そう
とする。
日本の読者にむける「あとがき」から。
>女の子は奴隷のように働く以外になんの権利も持たず、通りで男性と口をきく
ことすら禁じられていました。ましてや親の許可なしに好きな男性に体を許すな
どもってのほかで、その「破廉恥な行為」で家の名誉を汚した娘は、生きている
権利さえ奪われてしまいます。
本書は前半と後半に分かれている。
前半は生い立ちとその奴隷的な境遇、そして恋→妊娠→処刑未遂。後半は村からの脱出とその後の後遺症。
野次馬的な意味での好奇心からすれば前半が面白いが、本書の重さは後半にあ
る。
奴隷として仕えることを当然のものとする共同体から、何もかも自由なヨーロ
ッパへの移住。結婚、そしてシスヨルダンでは祝福されなかった妊娠と子育て。
火あぶりのあとに未熟児として出産された息子への悔恨。
著者のスアドをTVで見たことがある。たしか2004年のことだ。
顔面を白いマスクで覆っている(書名リンク参照)。目と口元以外は全てマス
クの下にある。身元が判明することで、かつての肉親に殺される恐れがあるから
だという。
その画像をみたとき、「それってどういうことだろう?」と素朴に疑問を持っ
た。
ちょうど本書が日本で出版された直後で、僕はその奇妙な仮面を表紙にする本
書を買わなかった。それから2年、同じ表紙で文庫化された。初めてその文庫を
みたとき、手に取れなかった。怖かった。信じたくない事実が書かれている気配
がそこにあったからだ。
2週間ほどたって、その文庫を手に取った。
そこに書かれた真実を知るべきだったのかどうか、それは今もわからない。知
らないままで済ませることもできただろう。「これは『向こう側』の出来事だか
ら」として。
だからかえって、ここで本書を薦めておく。向こう側は、何かの拍子でこちら
側になるかもしれないからだ。
『小説のゆくえ』 筒井康隆
著者はSF作家の大御所。
読書業界で「SF好き」の人は非常に多い。しかもSFファンというのは多読
が基本で、好きな作家ともなればどこまでもしつこく深く読むという熱狂的な愛
読者が多い。僕が全くSFを読まないのと対照的である。
本書は題名のように小説をめぐる諸問題についての過激なエッセイ集である。
言葉を操る達人の文章なので、多少の背景知識は必要である。ここで紹介する
のは2箇所。まずは断筆宣言にまつわる文章から。
>法が文学を裁こうとする際に用いる手段は(中略)結果的に作家や出版社を裁
いているだけであって、過去の焚書に効果がなかったのと同じく、文学そのもの
は懲役にも死刑にもできない。そして法が文学を裁こうとする時、まさに、裁か
れる原因たるその文学の反社会性、反良識性は、否応なしに顕彰されることにな
る。(中略)作家はその付加価値ともいえる著名性を上げ、作品は読み継がれる
。裁かれたというだけで、その文学はすでに勝っている。国家に。良識に。小市
民社会に。
「焚書」というのは秦の始皇帝がおこなった「焚書坑儒」が有名だろうか。
法またはそれを操る権力者が、自身にとって都合の悪い内容を持つ本を焼き捨
てさせたこと。当然のことながら、全ての本を焼き捨てることはできず、焚書の
命令が出されたということで逆説的に大切に保管される。
「顕彰」というのは功績を明らかにして表彰すること。
「顕現」や「表彰」という言葉を知っていれば想像がつくだろう。
「小市民」は社会運動で使う言葉。
辞書的には、資本家と労働者の中間にいて考え方は資本家的でありながら、生
活は労働者的な市民のこと。普通の文脈では「けっ。都合のいいときだけ、金も
ちの味方をしやがる薄汚いヤツ」くらいの意味で使われる。
こうやって説明してみると、著者の文章は読者にある程度のリテラシーを求め
ていることがわかる。
もう1つの引用は、1999年の文章ということで少し話題は古くなってしまうが
、ネットに関する考察。
筒井に限らず、成功者というのは新しいものに取り組む姿勢というか生活態度
を持っているようだ。そして筒井のすごいところは、ありえない系の暴言に簡単
に置き換えてしまうこと。
>ただしこの(文芸家協会の)連中、あまりインターネットに詳しくなく、何人
かの作家などは「ホームページなど退屈だ」と言っている。これは大きな誤りで
、退屈だと思うなら自分たちが退屈でないものを作らなければならないだろう。
それはまあそうなんだけどさ、でもねえ。
>最近は猫も杓子もインターネットであり、ある意味でギブ・アンド・テイクの
精神が失われているように思える。(中略)情報を何も提供しないでただ享受す
るだけというのは、礼節に欠けるという以前に、真に情報を得ようとしている人
の邪魔になるのである。
最後の部分などは、痛快な暴言である。
まあこれは現在で言えばネット掲示板のたぐい(筒井はパソコン通信時代から
使っているようなので、いわゆる「会議室」文化の状況を踏まえて発言している
のだろうが)のことを指して言っているのだろう。
そして、「その程度のことが読み取れない・考えられないアホは、俺の文章な
んか読む資格はない」と大きな声で語っているようにも聞こえる。そういうゴー
マンさと文章に魅力があるから、筒井は文筆家として高い評価を受けているのだ
ろう。
この手の本は「わからないなりにわかったフリをして」読むのがいいだろう。
何もかもが理解できる本だけ読んでいると、いつまでも言語能力のステップア
ップはできないから。
『私の話』 鷺沢萠
私小説を読むのは難しい。
小説の語り手が「私」や「僕」である作品は多いが、もちろんそのほとんどは
私小説ではない。私を一つの例として人間を書く、これくらいが広い意味での「
私小説」の定義なのだろうか。僕にはわからない。
本書は3章にわかれている。
それぞれのタイトルはシンプルに「1992年 私の話」「1997年 私の話」
「2002年 私の話」である。中心となる話題は順に、「母の病気」「貧乏なとき
に食べる『どんど焼』」「在日韓国人との交流」である。
最後の章の後半近くになるまで、一貫したテーマが著者の中に流れる韓国人の
血であることに気がつかなかった。著者の祖母が韓国人であり、つまり著者はク
ォーターということになる。
祖母はその事実、つまり韓国人であることを隠し続けていた。
しかし著者は若いころに書いた本でその事実を結果的に暴露してしまった。
>そのころは自分もまだ若かったせいで、特に「暴露する」というような意識を
持っていなかったのだが、今になって考えれば、私は祖母本人が一生をかけて守
ってきたものを、いとも簡単に崩壊させたのだ。
著者は1968年生まれ(2004年死去)。
その父は1936年生まれ。
偶然だが、僕とほぼ同世代である。そして以下も偶然なのだが、僕の父方の祖
父母も韓国で暮らしていた。戦後まもなくに日本に引き揚げてきたのも全く同じ
。違いは著者の祖父は日本人と再婚したことであり、僕の祖父母は日本人であっ
たということだ。このエッセイを書く前に考えたことがある。
本当に、僕の祖父母は日本人だったのだろうか。
2人ともずいぶん昔に鬼籍に入っているし、僕の父も戦後まもなくの信原家の
ことについては詳しく話さない。
日本人であったという裏づけはたくさんある。祖父母の名前は間違いなく日本
人のそれだったし、信原という性を持つ人がたくさんいる村が九州にあり、祖父
はその村の出身だった。それでも、自分の血統が本当はどこにあるのか実感する
ことはできない。できるはずがないことだとも知っているけど。
本書に話を戻す。
韓国人であることを隠し続けた著者の祖母は、亡くなる直前に著者に言葉を残
す。
>「おばあちゃんのことは、もうよしとくれね」
頭を鈍器で殴られる感覚、というのはああいうものを言うのだと思う。(中略
)私はやはりこのひとに――こんなにも大好きなこのひとに――酷いことをした
のだ。そう思った。
解説の酒井順子が見事な要約を見せる。
>この部分を読んだ瞬間、彼女が感じた「頭を鈍器で殴られる感覚」の何分の一
かでしかないけれど、同じ痛みを私は彼女と共感したのです。ほとんど宿命のよ
うな形で入った物書きの道において、書かずにはいられなくて書いたことによっ
て、自分が愛している人が一生かけて守ってきたものを壊し、傷つける。それを
自覚した時の痛みが、罪悪感が、苦しみが、どれほどのものか。
もちろん僕は物書きではない。
でも、というかだからこそ、「私の話」を書くことがどれほど危険であるかを
痛感した。そしてまた同時に、それぞれの「私の話」は、書かれることを求めて
いるんじゃないかと。どんな代償を払っても、どんなに自分を傷つけても、誰か
を損なったとしても。
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