各ページのご案内はコチラ
Copyright (c) 2004
takeshi nobuhara All Rights Reserved.
|
|
エッセイ、いいですよね。
脳みそをあんまり使わなくても読めるし、たまには笑えるしたまには勉強にも
なる。多少のハズレはしょうがないけど、サイアクでも時間は潰せます。
『負け犬の遠吠え』 酒井順子
2004年に流行語大賞の1つに入った「負け犬」。
その語源となった本書に関する書評はちまたにいくらでもありそうなので、オ
スの負け犬(未婚で子ナシの三十代以上の男性)である僕の立場から書いてみる
。書物の絶対性ではなく読者(たとえば僕)との相対性を書くということだ。
>負け犬達も、自らの老化に対する自覚は、十分に持っているはずです。私も、
「既に白髪があるような人間が、スヌーピーのTシャツなど着てもよいものだろ
うか。短パンなんかもはくわけだが、もしかして世間の人々は『いい歳して、そ
れは変ですよ』と言いたくても言えないという状態なのではないか」と、一応は
悩む。
あいたたたた・・・。
本書は著者の酒井自身が35歳のころに書かれたものである。もちろん彼女自身
が負け犬。自分の痛いところをグリグリ突くマゾヒズム的なエッセイである。そ
の言葉たちは負け犬だけではなく、オスの負け犬である僕をも貫く。
女性にとっての30代は明確に「私は子どもを産めるだろうか(産むだろうか)
」という悩みを抱える時期である。
男性のとっての30代は明確に「おれ、まだまだ子どもを作れないほどジジイじ
ゃないよな」と自分を励ます時期である。
切実さの違いこそあれ、老化という問題を抱え始める時期であることは同じ。
正確には、問題を抱えるのではなく「問題を抱えることになる自分の未来予想
図」を描き始める。そこに不安がないはずもない。負け犬問題は生殖的な問題で
あるのみならず、老化の問題でもある。
さしあたって切実、なのではなくて、「もうすぐ切実」ということを意識せざ
るをえないのが30代未婚女であり30代未婚男なのだ。
>「えーっと私は結婚できないんじゃなくてしないだけで、それでも私は毎日楽
しいから十分幸せなんで、勝ち犬から同情なんてされると心外だし、むしろは私
は勝ち犬の方が可哀相って思ってるくらいなんで、今さら結婚しろって言われて
も一人の生活が快適だから無理だって思う・・・」
読んでいるうちに、僕は「私」を「僕」に置き換え始める。
酒井は続ける。
>「・・・んだけど歳を取ったら寂しいかもしれないし、でもそれに気付いた頃
にはもう恋愛相手なんか現れないかもしれないし、っていうことは結婚って保険
みたいなもんだから」
そうだ、そうだ。
いいぞう、サカイ、その調子だぁ!
>「『はいれます終身保険』に今のうち入っておいた方がいいのかなっていう気
もするけれど、でも保険にしがみつくっていう選択も何か貧乏臭いような・・・
」
そう、それだよそれッ!
悩みを抱えながらも主体的な選択をする、そういう俺様(オスの負け犬)の生
き様が美しいッ!
>と、もやもや考えながら生きている。
・・・・・・orz。
もやもやした「あっちへ進みこっちへ戻り、やっぱり前に行こうかとすると後
ろ髪を引かれてやはりまだここにいる30代の僕、嗚呼気がつけばオスの負け犬」
とでも形容できる悲しみがあふれる、名エッセイなのでした。
『酒中日記』 吉行淳之介(編)
昭和40〜50年代に活躍した作家たちによる日記のアンソロジー(複数の著者の
作品を集めたもの)。
この時代の作家風情がどういう酒の呑み方をしていたかがよくわかる。
文学賞を取ったと行っては呑み、用がないから銀座に行っては呑み、家でも呑
み、座談会だ対談だと理由をつけて呑み、ヒマだから電話をかけて友達を誘い出
しては呑み、そんな具合。
面白いと思ったのは「電話」の話である。
本書には32人の作家による文章が収められているが、最初の10人の文章から電
話に関する記述を拾ってみる。もちろん、酒の誘いにからむものに限定する。
>阿部公房から安岡(信原注:章太郎)に電話がかかってくる(吉行淳之介)
>夜ともなれば頻々と誘いの電話を受けた(北杜夫)
>サン・アドの坂根君から電話。(中略)いつか飲もうといってあった約束であ
る(開高健)
>それで別に用事はなかったが、大江健三郎のところへ掛けてみた(安岡章太郎
)
>日中ぼんやりしているところへ生島治郎より電話(結城昌治)
>夕食後、いささか食いすぎて呆然としているところへ、阿川弘之氏から電話あ
り(生島治郎)
最初の10人の中で電話をしていないのは遠藤周作、瀬戸内晴美、阿川弘之、近
藤啓太郎の4人。しかし阿川は生島に電話をしているから、電話登場率は実質70
%である。すげえな。
もちろん酒の誘いだから電話を使うよりなく、呑みに至る経過を説明するため
に電話が出てくるのではあろうが、これにはたぶん理由がある。
そうですね、何しろ昭和40年代だから、電話が一般に普及した時代なのである
。電話でやり取りをするのが流行だったのだ。21世紀初頭にケータイメールが流
行ったのと同じことだったのだ。
『ほんじょの虫干。』 本上まなみ
著者の初めてのエッセイ集。
面白かったのは解説の中島らもの文章。
>最後の頁を閉じるのが哀しかった。おれはたったの4時間で日本で二番目のほ
んじょファンになってしまったのだ。(一番はほんじょ本人だろう)
なるほどと思わせるのは最後の「一番はほんじょ本人だろう」という部分。
つまり「日本で一番目のほんじょファンはほんじょ本人」ということだ。これ
は僕も全く同じようなことを読みながら感じていた。自分が書く文章を著者本人
がとても愛しているのだな、ということ。
少々感想文からそれるが、自分が書いた文章を愛するかどうかというのは個人
差が激しいだろう。
村上春樹は「書いたものは原則的に読み返さないし、何を書いたのかも覚えて
いない」などと突き放している。それが文章を愛していないという証左になるか
どうかは難しいが、確かに春樹は自分の文章と自分のあいだに距離を置くような
気配を感じさせる。
それに対し、本上は(あくまで想像だが)自分が書いた文章を何度も読み返し
、そこに絶え間ない愛情を注いでいる。おかしな感想だとは思うが、「ほんじょ
が自分の文章を愛している」空気が伝わってくるような文章なのだ。
僕自身(信原)はどちらかと言えばほんじょ寄り、つまり自分の書いた文章を
読み返す習慣があるし、愛情を注ぎ、文章に自分の存在を沁みこませようとする
タイプだと思う。
そういう意味で、僕が自分の文章に注ぐ愛情のすがたをほんじょの文章の中に
見ているから、僕はほんじょのエッセイを楽しく読むのかもしれない。だから、
「エッセイとしてはイマイチかな」と思いながらもこうやって拙い感想文を書き
たくなるのだろう。もちろん万人にオススメできる内容ではないのだが、それで
もしかし。 |
|