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小学校1年生のときの作文だ。
「1の3 信原健志」と表紙に書いてある。もちろん漢字はまだ書けない時期だから母親が書いたのだろう。みずいろのコクヨのバインダー。わら半紙に穴が空けられ、きっちりとバインドされている。
もう30年も前のことだから、本当に僕が書いたのかどうか確信は持てない。
でもこんなものを偽造するとか、他の人のものと取り違えるなんてことはないだろう。ちゃんと署名もひらがなで残っているし。タイトルは『たのしかったえんそく』。
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ぼくが、おきたとき、おべんとうをつくっていました。
きょうは、はれるかなと、おもってかーてんをあけました。
きれいにひがさしていました。
しゅっぱつするとき、「どうぶつえんのはなしをきくからね。」と、おかあさんがいいました。
お弁当を作っていたのは母だろう。
遠足という特殊な状況であるにせよ、僕は天気を気にしている。
>>> そして、がっこうから、しゅっぱつして、××えきにいくとかもつれっしゃが、つうかしました。
そのつぎに、かいそうでんしゃがつうかしました。
そのつぎ、きゅうこうにしまごめがつうかして、そのつぎ、きゅうこう上のがつうかしました。
そして、つぎの、つぎのでんしゃにのって、はくぶつかんどうぶつえんえきにいきました。
動物園の話ではないのか。
遠足の話ではないのか。なぜにここまで鉄道の記述が続くのか。この作文が何ページに及ぶのか知らないから、今の僕は不安になる。
>>> あしかをみるとき、さかなをなげたとたんに、ふらいでとりました。
ぞうが、くさをたべるとき、ふるくない、あたらしいくさをたべました。
おべんとうをたべるとき、はとがあしでわっとやったら、ばたばたと、とびました。
同形反復の恐るべき使い手である。
2回目の反復で主語が自分に入れ替わり、それでいて記述はハトに落ち着く。「あたらしいくさ」を説明するためにわざわざ「ふるくない」草を描写し、否定肯定1セットを具現している。このあたりの文章のクセは今も全く変わっていない。というより、すでに7歳のときに自分のスタイル(文体)を確立したのかもしれない(進歩していないとも言う)。しかし果たして、ハトというのは動物園固有の動物なのだろうか。
>>> けいせい上のえきにつくと、こんどは、ふつうちば、とかいてありました。
つぎは、きゅうこうさくらと、かいてありました。
そのつぎは、ふつうかなまちと、かいてありました。
ところがきゅうにかわって、こんどはふつうかなまち、とかいてありました。
つぎは、とっきゅうなり田と、かいてありました。
そのつぎはふつうちばと、かいてありました。
それに、のって、××えきまでいきました。
遠足のポイントは行き先に限定されない。
そこにたどり着くまでが、そこから自宅に帰り着くまでが、大切なポイントと考えるのは1つの人生観である。それにしても、どうしてそこまで鉄道にこだわるのか。行き先表示板が変わって、もう1度「ふつうかなまち」に戻ったところまで観察していたのか。まさか既にテツだったのか。
>>> いえで、いったんたおれてしまいました。
この作文はここで突然終わる。
倒れたのが激しい疲労を言い換えたものであることは間違いない。しかし先生は不思議に思ったのか「なんでたおれてしまったのですか」と朱書きしている。小学1年生がメタファーを使うとはよも思っていなかったのであろう。
自己研鑽は、もう1つの作文で終わりにしよう。
タイトルは『つまらない1日』。原稿用紙1枚である。珠玉の短編なのだろう。
>>> きのう、学校をぼくは、やすんでしまった。
おなかがいたいのでそとへでられないのでこまりました。
本をよんでばっかりしているのでいやになってしまいました。
しかたなく本をよんでいると、三さつよんたところでねてしまいました。気がついたら、もう五じになっていました。
本をよみはじめたら、すぐ6じになりました。
おなかがすいていたのでどんどんたべました。
またまたよんでいたら7じはんにねむってしまいました。
とてもつまらない1日でした。
1回をのぞいて全て改行されている。
改行という手段を多用して文字数を稼いだのかも知れない。タイトルにも並々ならぬセンスが感じられる。もはやこれ以上煮つめることはできないタイトルと言えよう。
ものすごい読書家でもあったらしい。本を限界まで読んで、外に出られなかったことが不満だったのか。ホットマットはまだなかったような気がするが。しかし、このあたりの行動、今も変わっていないような気もする・・・。
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