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常に面白い本ばかりを読めるはずもない。
人生は短いから良い本だけを読めなんてことを言う識者もいるけれど、実際に
は読んでみなければわからない。失敗は成功のモトという言葉もある。手当たり
次第に読んで、程よい失望を得たエッセイたちを紹介する。程よいということは
、それだけ見どころというか長所もあるということだ。
『妖精が舞い下りる夜』 小川洋子
90年代前半、著者がデビューして芥川賞を取るころの身辺雑記である。
同じ話題が頻出するのは、同じ時期にあちこちの雑誌に書き散らしたものを集
めた証拠。小説に書ききれなかった小さなネタや、自作の小説にまつわる小話を
扱うなど、エッセイを「お気楽な小銭稼ぎ」としてしか見れない作家の文章の真
骨頂。
問題は著者よりも、出版社(K川)にある。
本書は1993年に単行本で出版され、1997年に文庫化。しかし僕が手にしたのは
2006年度の「再版」バージョンである。なんと初版が1997年で、9年もたって再
販されたのだ。おそらくほとんど版を重ねることもできなかった本を、『博士』
が売れたのをいいことに再販する。しかも、内容が古い上に面白くない。
たとえば、『博士』で著者の名前を知ったが、買うまでには至らなかった人が
いるとする。小説を読み慣れない読者には敷居が高い。
「あ、『博士』の小川さんってエッセイも書いているんだ」
と思って買ったとする。
ひどい駄作なので、彼・彼女は「なんだ小川ってつまらないじゃん」と思った
とする。書籍の世界に入れなかった読書素人さんを出版業界は失う。
むしろ、『
博士』をヒットさせた後で書かれたエッセイ集ならいいのである。面白くないの
は著者の力量であり、もちろん読者の責任でもなければ、出版社の責任でもない
。
しかし、本書の場合は、まだヒットを飛ばすことができなかったころの、言わ
ばウブイ作品である。
『博士』の高名にひっかけて出版社が当座の利益だけ狙って売り出すから、そ
のせいで著者が無用に評判を落とす。経営に苦しむ出版業界にとって、これほど
の痛手はあるまい。
「今、とりあえず金になればそれでいい」
という場当たり主義が、業界の衰退を招く。なぜそんなことに、角Kともあろう
老舗が気がつかないのか。
ところで最後に本書の感想に触れておくと、かなりレベルが低いエッセイ。
エッセイが小説家の「小説のおまけ」である時代は終わっているとおもう。司
馬遼太郎や村上春樹のエッセイには「エッセイとしての芸」があるが、本書には
芸のかけらもない。ただし、著者のコアなファンの場合は「おお!」と思うかも
しれない。それだけが救いと言えば救い。
『はみだしオケマン挑戦記』 茂木大輔
NHK交響楽団のオーボエ奏者のエッセイ。
オーボエとはどういう楽器か?
えーと、笛ですね、たぶん(マンドリンは?)。
ちょうどクラシック音楽漫画を読んでいるところだったので、リンクする部分
が多く楽しめた。地方を移動しコンサートを展開する姿はまるで旅芸人であり、
その芸は一度成功したところで繰り返せるという保証もない。そして体力的に非
常に厳しい。クラシック演者なんて燕尾服を着てちょっと演奏するだけじゃない
か、という世間の人々のオロカな誤解をかき消してくれる実情がここにある。
ビータ(演奏旅行)で京都から山口に移動。
梅雨のさなかであり、暑く、すでにビータは6日目。著者も演奏での小ミスが
続いてイライラしている。
>新幹線でひたすら西へ。また十日後にはこの一帯に来る。福山、沼隈、北九州
。なんとか、いっぺんで済まないものだろうかなあと、眠ってしまう。
宿泊地である小郡に着いたが、ここから会場である山口がまた遠い。おまけに
、ビジネスホテルであるらしくアーリーチェックインができない。みんな、疲れ
ているので相当に怒る。ホテルの対応も、慇懃無礼というやつでむかつく。敬語
を使っているつもりなのだろうが・・・(後略)。
失敗やドジの記録も多い。
リードという部品(音調を整える道具のようなものらしい)の調整がうまくい
かなかったり、演奏で失敗したり、指揮者が気に入らなかったり、ビータの日程
がきつかったり、オーボエが主役になれる曲が少なかったり、N響の評価が海外
で低かったり、つらい心情が語られている。
>家に帰ってしばらくしてからも、おれの頭を去らなかったのは、ロンドンのが
らがらの客席、厳しい批評であった。それらの事実は、日本のなかで最大の歴史
と伝統を持ち、最高水準の演奏を維持してきたはずのN響が、海外でそれに見合
う、恥ずかしくない評価を得ているのか、そして得ることができるのか、をおれ
に冷たく問いかけているように思えてならなかった。
何かが足りなかったのだ、それを、認めなくてはならないときが来ているのだ
し、もしかしたら、そのことを悟るために、おれたちはイギリスに出かけていっ
たのかもしれない。
この引用でわかるように、文章が拙い。
そしてその拙さの中に訴えることがある。逡巡(しゅんじゅん=悩むこと)す
る芸術家の姿がある。閉鎖的な世界にいて、それでいて芸術というかたちのない
ものを扱い、それを生計の手段にする不安も抱えている。
本書が名エッセイであるとは思えない。
しかし、ここに描かれた世界が芸術家の悩みであり、あまりに厳しい実情の記
録であることは間違いない。
『秘密のミャンマー』 椎名誠
2001年ごろのミャンマー旅行記。やや平凡。
往年の、なんて言ったら失礼だが、椎名が若いころに書いていた旅行記の迫力
がない。「解説」で江口まさみ氏はこう書いている。
>椎名さんの旅には、通訳や運転手、さらには編集者までついてくるではないか
。なんとラクチンな旅だろう。いやしかし、これこそ正しくまっとうな取材旅行
というものなのかもしれない。
「解説」ということでフォローが入っているが、同感だ。
安全な場所で案内してもらいながら安全に旅を進める。もちろんそれは「取材
旅行」であれば当然なのかもしれないが、読者は椎名誠のような「男」にそれを
求めない。「椎名さんみたいには俺はなれないな」というアコガレを感じたくて
読むのだ。少なくとも僕はそうだ。読者本人こそが一番安全な場所にいる臆病者
であることは否定できない。
椎名も「文庫版あとがき」でその安全さに後悔を覚えている。
>いささか安易な旅をしてしまった
>ミャンマーという歴史的に、政治的に特別な位置にある国であるからもっとそ
のことにストレートに入り込む姿勢を取ってもよかったのだなあ
>宗教や平和ということについてもっと思いを募らせていい背景にあって、いた
づらに物見遊山に流れてしまったことが嘆かわしい。
よほどの後悔をしているのか、「文庫版あとがき」の最後には他の作家のミャ
ンマーに関する本を紹介し「本書よりもこの本を読んでいただいたほうが・・
・」とまで書いている。
強くありたきもの、
汝の名前は椎名誠。
次回作に期待だ。いい作家でも、たまには読者を裏切る。
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