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『アフターダーク』
東京の夜。中国語を大学で専攻しているマリはファミレスで夜を過ごそうとし
ている。姉のエリは自宅で長い眠りに入っている。エリは家族の見えないところ
で食事を取り、家族が見ているところでは常に眠っている。マリのところに見知
らぬ男がやってくる。マリはどこかで会ったことがあると思う。一夜だけの奇妙
な物語が始まる。
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目にしているのは都市の姿だ。
空を高く飛ぶ夜の鳥の目を通して、私たちはその光景を上空からとらえている
。
こうして始まった物語は、
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夜はようやく明けたばかりだ。次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある。
こうして終わる。
中編に近い長編小説である本書は、春樹の長編の中でもっとも時間の流れが遅
い。
夜の12時になる直前から、朝の6時52分まで。太陽の光は最後の章になるま
で出てこない。章が変わるたびに、場面が変わるたびに、時計のイラストで時間
が明示される。
春樹の小説は、時間や数字を丁寧に扱うことにも特徴がある。
必要があるのかないのか、正確な時間を記述することもあれば、厳密に物語だ
けを追いかけると時間の流れがおかしいところもある。どういう意図があるのか
はわからない。本書では文章ではなくイラストで時間を示しているわけだから、
意図があることだけは確かなはず。
デビューから25周年。
春樹が選んだ物語の語り手は「僕」ではなく、映画のカメラだった。前述の冒
頭部分「目にしている」の主語はのちに「私たち」と与えられる。前作の『海辺
のカフカ』まで、長編小説の語り手は原則的に1人称、『スプートニクの恋人』の「
ぼく」をのぞけば「僕」ばかりだった。本書は「私たち」をのぞけば全て3人称
。
11作目の本書は、デビュー作の『風の歌を聴け』を追従する部分が多い。
しかし形式や表現に似通ったところがありながら、少しだけずらしている箇所
が異常に多い。
たとえば、断章。
1つの章は妹のマリが、次の章は姉のエリが主人公を務める。『風』では主人
公の「僕」がその章の主人公をつとめるか、もしそうでない章があれば友人の「
鼠」が主人公である。ところが本書は『風』と異なり、マリとエリの章は交互に
構成されていないし、常に彼女たちのどちらかが「主役」を務めているわけでも
ない。
たとえば、会話。
また、マリの章はほとんどが会話で構成され、エリの章に会話はない。エリは
眠っているという事情はある。それにしても、マリが登場する章はほとんどが会
話で埋められる。会話を中心にするストーリーテリングに戻ってきたように見え
る。しかし、『風』では「僕」も「鼠」も冗舌に語る。
たとえば、フレーズ。
妹のマリの章では「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」が出てくる。これは『
風』の「ゆっくり歩け、そしてたくさん水を飲め」に似ている。本書では今夜で
バンド活動を卒業する高橋がマリに語り、『風』では中国人バーテンダーの
ジェイが「僕」に語っている。「そして」が入るか入らないかでは、意味が違う
。本書では中国語を操るマリがこの言葉を受け取り、『風』はその逆だ。
たとえば、移動。
7時間たらずで、マリは夜の街を何度も移動する。「デニーズ」からラブホテ
ル、そこから「すかいらーく」、さらに公園に足を伸ばし、始発より少し遅くな
った電車に乗って自宅に帰る。帰宅をのぞけば、移動しているあいだマリは常に
誰かと一緒に行動している。『風』では「僕」も「鼠」も常に独りで移動してい
る。
春樹が意識せずに書くはずがない。
もともと、春樹の小説は「何が言いたいのかわからない」ものである。春樹本
人も、
「物語は自分のどこかから出てくる。物語というゲームを作っているのは自分自
身だが、プレイヤーも僕自身で、どういうゲームであるのかは自分でもわからな
い」
といった趣旨のことを繰り返し書いている。
小説という大きな枠組みの中に、物語がある。
もちろん、一般に広義の読者は「物語すなわち小説」と考えるだろうし、それ
は自然な読み方だろう。もしそのように、ただ単純に「こういう物語なんだ」と
思って読めば駄作とする評価もあるだろう。
本書の登場人物は、もちろんそれぞれに物語を抱えている。
眠らない夜を選んだマリと、眠り続けるエリ。中国人娼婦に意味もなく暴力を奮う白川。日本語も話せないまま娼婦になるために来日した中国人少女。彼女を使う売春組織のバイク男。バンド活動をやめて司法試験に向けて勉強しようという高橋。高橋の友人であるラブホテルの経営者。そこで雇われている女が2人。
それぞれの人生がそれぞれの物語を抱え、その物語の一部がこの小説の枠組みの中で行き違う。
重なるのではない。重なるには小説内に流れる時間である7時間では足りない。数学の空間図形の「ねじれの位置」にある直線同士のように、それぞれの直線=物語は限られた空間を同時期に通過する。軌道の異なる人工衛星のように、決して衝突するわけではない。
そうなってくると、やはり前述のように「こういう物語なんだ」と考えた場合に不満は残る。空間図形の一部を取り出したに過ぎないからだ。
しかし、小説の中に描かれた物語を追いながら、小説の中に描かれることのな
かった、登場人物それぞれの物語を探して読むこともできる。その「描かれなかった物語」の存在が何であるのかは、正直なところ僕にはわからない。上に記したように、過去の物語(あるいは小説)を伏線としているのかもしれないし、本書で完全に新しい物語を提示しているのかもしれない。
春樹の作為や意図を探して読むならば興味深い「小説」だろう。
読み終えて、「で、それで?」と不思議に思う(あるいは不愉快に思う)感覚
が、次の小説(あるいは物語)につながっているような気分にさせる。ストーリ
ーが最もシンプルで、最も意味がわかりにくい小説と言ってもいいだろう。
あるいは10年も20年も時間が過ぎたときに、再評価を受ける傑作であるのかもしれない。
それには条件がある。村上春樹がこのあとも小説を書き続けることだ。春樹自身はそれを理解しつくしたうえで、こういう不思議な小説を書いたのだろう。たぶん、おそらく。 |
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