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ある世代ともう1つ下の世代にはハッキリとした壁がある。
年齢の差という問題ではなくて、「ここから上」と「ここから下」という明確
な壁がある。バームクーヘンというお菓子がある。1つの層と隣り合うもう1つ
の層は、子どもの手でも簡単にわけることができる。両手でバームクーヘンをに
ぎり、弱い力を加えると、必ずその層の分かれ目で裁断される。そういう明確な
境界線を引けるポイントが世代間の壁だ。
ある授業で扱った長文の内容は、「幼稚園に送り迎えをする母親の外見の変遷
」だった。
簡単に要約する。
>20年にもわたって同じ幼稚園に向かう母親たちの姿を見ると以下のことがわか
るよね。昔は、「送り迎えの親っていったらこういうカッコだよな」というイデ
タチで母親たちは現れた。(でも)今は、なんだかすっげーおめかしして送り迎
えしてんだよな。
ありがちな「昔は良かったなあ」という話題だ。
ここで困るのは「送り迎えの親っていったらこういうカッコだよな」という内
容だ。良い例はないかなと考えて、「割ぽう着」と言ってみた。最近の親は「エ
ルメスのバックなぞ片手に」としてみた。
後者はただの冗談だが通じなかった。
千葉だから(差別)ヴィトンのバックと言っておけば良かった。それはいいと
して、問題は「割ぽう着」だ。通じるだろうか? 危ないなと思ったので挙手制
で質問。
>かっぽうぎ、と言われてイメージがわかない人、手を挙げて。
ほぼ3割が挙手。
やはりそうだったか。「かっぽうぎ」は「割烹着」で、料理をするときに着る
エプロン状の白い衣服である。エプロンと違うのは
1、かぶって着る(着脱がラク)
2、腕にも布地がある(汚れに強い)
ところ。
しかしもちろん、もう僕の世代でも「実際に割ぽう着を着て出歩く母親」の姿
を見た経験はない。マンガ『サザエさん』の舟さんが代表例かもしれない。舟さんはほとんどいつも割ぽう着を着ていて、その娘=次世代であるサザエさんが割ぽう着を着るシーンは非常に少ない(張り切って料理などの家事をするシーンでのみ散見される)。この昔のマンガでも割ぽう着は昔の衣服とされているわけだ。
最近では、西原理恵子のマンガ『毎日かあさん』の「かあさん」が割ぽう着を着ている。
とは言っても「かあさん」のモデルである西原さん自身が、この現代に実際に割ぽう着を着ているわけではないだろう。主婦業に、とりわけ子育てに専念する女性の象徴的な衣装が割ぽう着なのだ。
ところがこうして3割の高校生が割ぽう着を知らない時代になってみると、「
(昔の)送り迎えの親っていったらこういうカッコだよな」という和訳を書いて
も、意味のイメージができないということになる。
どうすればいいだろうか。昭和30年代的過去を知らないことを責めるわけには
いかない。だから最近の世代にわかるような(たとえば彼らが生まれた平成元年
あたりまで散見されえたような)例を出せればいいはずだ。先に言っておくと、
この話題に結論はない。
しかし、こう考えても適切な例が見当たらない。
貧しさとか、それによる忙しさとか、カッコ悪くてもいいじゃないかというヤ
ケッパチ(とまではいかないかな)という風潮は、失われてからあまりにも長い
時が過ぎてしまったのだ。僕が『サザエさん』でみた割ぽう着姿で「ああ昔の母
親はこういう服を着たものなんだな」とイメージできるのは、その世代と僕の世
代のあいだにある境界線が曖昧だからだ。バームクーヘンで言えば、柔らかいス
ポンジ状の部分にともにいることになる。
僕は昭和末期から平成初期を思い出す。
あのころ、母親たちはどういう姿をしていただろう。貧しさや忙しさを象徴
する服はあっただろうか?
たぶん、もうない。
正確には、もうなくなっていた。そのころには、おそらく多くの日本人は、貧しさや忙しさから脱却することができたのだ。あの割ぽう着に見られた時代の記憶は、僕の世代を最後として絶滅したのだ。こういうとき、我々はジェネレーションギャップという言葉を選びたくなる。そしてその言葉は、僕にバームクーヘンの境界線を連想させるのだ。
そこは、明確な分水嶺なんだよ、と自覚する。
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