各ページのご案内はコチラ
Copyright (c) 2004
takeshi nobuhara All Rights Reserved.
|
|
とつぜんそんなことを質問されても困るだろう。
さあ答えよ。君はもちをついたことがあるか?
なぜ急にこんな話題になったかというと、祭りがあったからだ。
祭りといっても京都の葵祭りとか青森のねぶた祭りとかそういうメジャー系で
はなく、自転車でドライブしていたある秋の夕暮れに、祭りを見てしまったから
だ。しかも、ときは夕方ではなかった。朝でもない。昼間だ。午後の2時とか、
そのへんだ。
そもそも、祭りというのは地域振興とか町おこし(同じか)とかそういうもの
は別として、夕方から夜にやるものではないか。
違うか。しかし僕は白昼といってよい午後2時くらいに、その祭りを見たのだ
。場所はよく覚えていない。せいぜい、隣町の隣町の従姉妹町くらい、自宅から
まあ自転車で20分くらいの場所だ。いいですね。特に知らないがよく知っている
わけでもない町で、昼間に、祭りを僕は見た。
そこでは、人々がもちをついていた。
と言うならば話はつながるが、そうではない。その祭りに参加している人々は
、5人だった。誇張ではない。本当に5人だ。4人では見られない興奮が
あり、6人でこそ生まれる高揚感もない。ではその5人は何をしていたいのか?
笛を吹いているのである。
太鼓を鳴らしているのである。たしか、太鼓が2人、笛が3人。ハッピのよう
なものを着て、ハチマキをまいて、何かの音楽を奏でながら街を練り歩いている
のだ。こう書くと、「なんだ、チンドン屋か」と思われるかもしれないが、そう
ではない。真面目に、何かに祈りを捧げるように、いやあるいは何かの宗教的な
儀式を営んでいるように、5人は歩いているのだ。
だからといって、緊迫感はない。
これは誰かが行うべきことで、とにかく今は我々がやらなければいけないので
やっているのだ、という倦怠すら漂っている。見物人は、自転車を止めて見てい
る僕を含めて、3人くらいだろうか。
彼らは、つまり楽器をかなでる5人は、ある場所まで来て立ち止まった。
音楽はやんだ。3人は笛を持ち、2人は太鼓を持っているが、持っているだけ
で何もしない。ハッピ姿でハチマキをして、楽器を持ったままただ立っているの
だ。何が始まるのだろう。何も始まらないのだろうか。僕をふくめた2人(1人
はいなくなった)はじっと彼ら5人を見ている。
そこは神社の祠(ほこら)か何かの前だった。
道祖神とかそういうものかもしれない。そこには小学校の運動会で教育委員会
の偉い人が座るときに使うような、テントが張ってある。紅白の幕のようなもの
はない。公民館のテーブルのようなものがいくつか、パイプ椅子がいくつか。テ
ントの下部の中心にあるのは、もちをつくための杵(きね=たたくための棒)と
臼(もちを入れる、木の根っこをくり抜いたもの)がある。その他もろもろ。
5人は、もちつきの準備を始める。
そうだ、これからもちがつかれるのだ。これはやはり祭りなのだ。五穀豊穣を
願うとか、そういった類の真剣な祭りなのだ。僕と、もう1人のおばさんは彼ら
の準備をじっと見ている。音はない。
準備はできた。
リーダー格と見られる70歳くらいのおじいさんが全体の監督役で、もちをこね
るのは角刈り頭の50歳くらいのおじさん。杵を持ったのは、もっとも若い20代半
ばと見られる男である。ほかの2人は所在なく立っている。というか、ものごと
が進むありさまを見届ける役目らしい。
ぺったん、はっ、ぺったん、はっ。
もちをつく音と、こねる50歳の吐息である。ぺったん、はっ、ぺったん、はっ
。そのリズムを神だか仏だかに捧げる、といった意味があるのだろう。僕とおば
さんはまだ見続けている。この、もちをつくという行為の祝祭性に、あるいは呪
術性に魅せられている、のかもしれない。自分でもよくわからない。もちが完成
したら何が起こるのか?
リーダーのおじいさんが初めて僕に視線を投げてきた。
ああそんなところにいるじゃないか。我々の祭りを完全なものにする者がそこ
に。彼の目と僕の目があう。雄弁な沈黙というのが世の中にあると聞いていたけ
れど、雄弁な視線というのもあるのだ。そう、リーダーは
そこのお前、もちをつけ
と目で語っている。
僕は自転車のサドルに尻を乗っけた。
この祭りは、僕にとって観るだけのものだったんだ。参加するものじゃなかっ
たんだ。
僕は必死でペダルをこぎだす。
ぺったんの音が遠くなっていく。自転車にスピードが乗るまで、5秒くらいは
かかるだろうか。リーダーが脱兎のように追いかけてくる、なんてことはもちろ
んなかった。良かった。僕は、祭りという呪縛にからめとられる前で逃げ出すこ
とができたのだ。
君よ、もちをついたことがあるか?
|
|