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2007年夏の記録。
JR郡山駅で降りたのは朝の8時半過ぎだ。
僕と連れは駅レンタカーを借りて、一路裏磐梯を目指すことにする。郡山から高速で直行すれば1時間足らずの会津若松に3時過ぎに到着すれば良い。そこには親戚の家があり、一夜の宿を借りる予定だ。
裏磐梯の話は以前にも書いた。
緑が多くて湖があって涼しい。冬はスキーのメッカであり、夏は避暑地である。10時半ごろ、どこかのドライブインで休憩。おやつでも食べるかね。
福島県は桃の産地。
ちょうどお盆前で最盛期なのか、桃やキュウリが流水につけられたまま売っている。桃は1個100円。店員のおじさんに声をかけて100円を払うと、
「2、3個くらい食べていいよ」
とのこと。すごい値段のつけかただよね。冷たい水から好きな桃を取り出して、ナイフで切って食べる。とてもおいしい。生きているものを食べているんだ、というくらいの爽快感。夏の福島は桃のかじり食いです。皆さんもお試しあれ。
時間があるので喜多方へ。
ラーメンの街として知られているので、どこかの1軒に入る。特製ラーメンとやらにはエビだのホタテだの入っていた。ここは山の中でしょうが。そして、予想されるように旨くない。なんじゃこりゃ。店を出てから連れに聞くと、
「あれで1杯1,000円ってことはないだろう」
と意見の一致を見る。僕が喜多方ラーメンを食べたのは4回目になるけれど、旨かったためしがない。皆さんもお試しあれ。
午後になってから会津若松市内に入る。
城下町なので一方通行が多い。それでもカーナビの力で無事に鶴ヶ城にたどり着く。なつかしいな。
会津若松は、僕の母方の故郷である。
だから僕は小学生のときには、毎年夏に「里帰り」していた。もちろん田舎町なので見るべきものがたくさんあるわけもなく、お城を何度も見た。あるいはよびわる読者の中には知っている人もいるかもしれないが、僕は古い建物やその跡地を見るのが病的に好きなのである。
鶴ヶ城も、もちろん天守閣は復元であるにせよ、何度見てもあきない。
中学生のときには、その歴史を自由研究の課題にしたくらいである。しかしそんな(個人的に)思い出深き鶴ヶ城も、最後に訪ねたのは14年前のことだった。
連れが鶴ヶ城に来るのは2回目ということで、僕が簡単に案内。
「ここを昇ると赤い橋が見えるよ、ほらね」「あの茶室は平成になってから出来たやつだからツマラナイよ」、という程度の案内ではある。とても懐かしかっ
た。望郷の思いなんていうものに興味はないけれど、懐かしいという気持ちを消すのは難しい。
会津若松市内の親戚の家に到着。
それほどの田舎ではない。住宅街の中にあり、しかし人の気配がしないくらい。家の前には畑があって、トマトがなっている。上のように小学生の夏を何度か過ごした場所なので、懐かしいという気持ちでイッパイになる。
翌日。
親戚のおじさんの案内で会津行脚をすることになった。前述のように未踏の地がほとんどないので、スケジュールを組むのが大変だった。まずは大内宿(おおうちじゅく)へ。江戸時代の宿場町。
昭和になってから「発見」された古い街ということ。
もちろん存在は続いていたのだろうけど、あんまりにも山奥過ぎて観光地化されるまで時間がかかった、ということだ。日光から会津に抜ける街道の途中だという。もちろんその旧街道は今は山道になっていて(鎌倉の切り通しみたいな状態で、歩けなくはないくらい)、のちに開通した道路でたどり着く。
歴史的保存地区に指定されているとか。
道を挟むようにわらぶき屋根の建物が立っている。合計で30軒くらいかな。真ん中の道幅は7〜8メートルで、左右ともに軒下には小川が流れている(道はかなり傾斜しているわけだ)。その小川は生活用水として使われていたようで、僕が訪れたときも水をくみ上げて道に撒いていた。
どの建物ももともとは宿場だったということで、屋号が屋根のあたりに残されている。
が、今はただの観光施設である。なにしろ、1軒を除いて全てのわらぶき屋根の下はオミヤゲ店になっているのだ。山で取れた食べ物とか、ソバとか、お土産的陣笠とか、「大内宿Tシャツ」とか、ペナントとか(これはウソ)、そういう俗っぽいものが売られているばかりなのだ。観光地化ってのはしょうがないけどね、本当に古いまま残されていても困るし。
唯一の例外が、「本陣」(つまり大名一行の一番偉い人が泊まる宿)。
ここだけが資料館になっている。古いもの好きの好事家(こうずか=モノズキ)としては潜入・・・じゃなくて見学ポイントだ。もちろん江戸時代から昭和初
期にかけての民具などが保存されている。いいねえ。
さて、これで有名な観光地の見物は終わった。
大内宿のあたりには「塔のへつり」という名所もあるが、すでに僕は訪問したことがある。次にどこに行くか、というのは昨日から問題になっていた。親戚のおじさんによれば、
「ころり三観音というのがある」
となる。ナンだよそれは。聞いたことがなくもないのがもどかしい。その1つは「中田観音」といって、野口英世の母だか祖母だかがお参りしたことで有名らしい。
なんで野口英世がここで出てくるのか、と思った人が多いだろう。
会津若松から東へ直線距離で15キロほどに、猪苗代湖がある。その湖畔には「野口英世記念館」がある。つまり湖畔あたりが野口英世の出身地なのであった。そのあたり
から、えーと昭和じゃなくて大正時代あたりだと思うけど、母だか祖母だかがお参りしてたのか。病弱な英世を助けてくださいというお参りね。歩いたら30
キロ近くも離れていると思うんだけど、そういう時代なんでしょう。
「中田観音」に到着。
ただの寺である。ハッキリ言って、小さいというかしょぼい。観光客はゼロ。その後成長した野口英世がお参りしたときの写真などが飾られている。そうか、そうなんだ(だから何だ?)。
問題は「ころり」の由来である。
親戚のおじさん及び案内表示板によれば、ちゃんとお参り(月参りだったと思う)すれば、長患いすることなく「ころり」と死ぬことができるんだそうな。はあ。境内には「抱きつき柱」というものがあって、それに抱きつくことで祈りがかなうんだそうである。
たしかに長患いってイヤだよなあ。
どうせ死ぬなら「ころり」が良いという意見には賛成できなくもない。死ぬことから何人もまぬかれることができない、これは我々が生きる意味を見つけるうえで大切な真理である。ってことは。
抱きつくしかない。
なんか、きったねー棒だし(@_@;)
参拝は終わり、我々は予定通り山間の道を進んで易者に会いに行く、ではなくて「山都そば」を食べにいく。
あまりに旨いので、「水そば」なる名物があるという。そばを水だけで食べる
のである。連れと伯母と親戚のおじさんは「そばの味だけがするから旨い」と言っていたけれど、唯一のヤングである僕は
「ちょっと・・・(こんなのが旨いのか?)」
というところであった。普通にツユにつければきわめて上等だろう。
山間にある店で、客はほとんどいない。
広い店内で30分ほど昼寝。70畳くらいの大広間にいるのだ。起床して、さあどうするかということになった。
「ころり三観音を制覇するしかあるまい」
・・・やっぱりそうなるのか。
「鳥追観音」。しょっぱい。
「立木観音」。以下同文。いちおう「抱きつき柱」がそれぞれにあって、ちゃんと抱きついておいた。これできっと、ころりと死ねるだろう。
「なんか、つまんなさそうな旅だなオイ!」
と思ったそこのあなた。
その通りだ。
懐かしく思う日は・・・それでも来るんだろうなあ。皆さんも機会を作ってゼヒ行ってみて・・・下さる必要はないと思います。何も悪いことはなかったんだけどね。なんだか、別の意味ですごい旅だったなぁ(-_-;)
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