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見た夢を語るのが難しいように、音楽を語ることは難しい。
映像や音楽は1つの伝達媒体であり、言葉はまた別の伝達媒体であるからだ。
異質の媒体をつなごうとする試み。音楽を語る挑戦、音楽家を語る野望。そういう本を2冊紹介する。
『モーツァルト 天才の秘密』 中野雄
音楽を聴くときに、その背景知識は必要だろうか。
もちろん本来は不要である。ただ単に聴いて楽しめばいい。音楽を聴くときに
歌詞の内容も全て聞き取っている人はほとんどいないだろう。歌詞もリズムもひ
っくるめて「そこにあるもの」として楽しむ、それが音楽だ。
しかし、上記のような「そもそも論」は別として、ある程度の知識を得てから
聴くほうがよい音楽のジャンル――具体的にはクラシックだ――もあるのではな
いか。
その背景知識を得ることで聴くことそのものが楽しくなるのかどうかは知らな
い。ただ、現実的にCD店のクラシック・コーナーの棚の前に立ったときに、知
っていれば選ぶ基準が生まれるんじゃないか。そう考えて本書を読むことにした
。
本書によれば(当然のことながら)モーツァルトを語った本はたくさんあるよ
うだ。
それらの中で語られた内容を、できるだけ客観的にそして初心者にもわかりや
すいように要約した本といえる。その一方で、著者なりの音楽観が頻出する。中
でもモーツァルトの早熟さと学習能力に関しては強すぎるとも言える主張がある
。
>人生には「臨界期」と呼ばれる年齢がいくつかある。
その年齢以下で経験させなければ、以後いかなる努力をなそうとも身につかな
い技術、或る年齢以下でスタートさせないと、決してその分野では一流の域に達
することのできない技術がある。
(中略)そしてモーツァルトは、産湯に漬かったときから父親と姉の奏でる音
楽を耳にしながら育ち、三歳の頃から、名教師である父親に理論と実技の双方に
わたるシステマティックな教育を受けたのだった。
記述は生い立ちから死に至るまで、モーツァルトが囲まれていた「環境」との
関係を重視してなされている。
幼児期の英才教育、有名な父親の過干渉、過酷な旅が中心の生活、18世紀後半
の音楽家の地位、父親の死。
僕がこの中でほとんど知らなかったのは、当時の音楽家の地位である。
モーツァルトより15歳年下のベートーヴェンが「使用人のような扱いをされる
とキレだした」という話をどこかで読んだことがある。本書によれば18世紀末か
ら19世紀にかけて音楽家の地位は貴族の使用人から少しずつ改善したようである
。そしてモーツァルトは、わずかな差で使用人の立場のまま人生を終えてしまっ
た。
最後に、モーツァルトの自負心について。
父親におくった手紙から。
>「凡庸な才能の持ち主なら、旅などしようがしまいが、いつまでも凡庸なまま
です。しかし卓越した才能の持ち主ならば――ぼく自身がその才能の持ち主であ
ると自負しても、罰は当たらないと思いますが、いつも同じ場所に留まっていた
ら駄目になってしまいます」
なるほど、本書のタイトルは内容をちゃんと要約している。
『グレン・グールド 孤独のアリア』 ミシェル・シュネデール(千葉文夫訳)
グレン・グールドという鬼才ピアニストの伝記。あるいは彼に関する考察。ま
たあるいは、彼の異常とも言える演奏もしくは行動もしくは世界観に関する考察
。
この「読んだ本の感想文」において、逆説的になるが、僕はこの本の感想を書
かない。
書けないのではなく、だからと言って書かないということを強調したいのでも
ない。グレン・グールドとは何者だったのか、それだけを考えたい。
グレン・グールドというピアニストの存在を知ったのは、誰かの小説だかエッ
セイだったかだと思う。
そこには「あまりにも他のピアニストと違いすぎる」というようなことが書か
れていた。僕がクラシックを聴
くようになったのは35歳からだったので、その文章を読んだところで「ふーん」
と中立的な、言い換えれば無味乾燥な感想を持っただけだった。
モーツァルトのピアノソナタに興味を持った。
まだCDで8枚くらいしか聴いていないけど、まずはピアノソナタを聴いてみ
ようか。小学生のときに、親戚の家でピアノを練習したこともあるし(今はまっ
たく弾けない)。たまたま、CD店にはグレン・グールドの「モーツァルト・ピ
アノソナタ全曲集」があった。
うーん、特殊なピアニストだと聞いているけど、まあ全曲集だからいいか。
4枚組で5000円くらいというのもいい。
聴いてみれば、とんでもない演奏だった。
今まで聴いたことのないソナタですら、新鮮だった。聴いたことがなければ新
鮮なのは当然だろうって? そうではなくて、曲そのものではなく、演奏者が僕
に何かを訴えてくるのが1曲目(第1番ハ長調K.279)でわかった。モーツァル
トには珍しい短調である第8番イ短調K.311を聴いたら、もっとよくわかった。
音楽というのは、曲が聞き手に何かを語るものだと思っていた。
しかしグレン・グールドは違う。彼の演奏はその曲を演奏するという行為ではなく
、自分という存在を演奏する行為だった。少なくとも彼にとって、自分の解釈を
交えずに、もっと言えば自分の解釈を何もかもさらけ出すことなく演奏をするこ
とは許されなかった。僕は、初めて聴くメロディーの中にそれを感じた。グール
ドは、たまたまモーツァルトの楽譜を使って、自分を演奏している。
語りだせば長くなるし、僕の筆力では何も伝えられまい。
だから、この感想文の最後に本書の一部を引用する。以下を読んでも何を言っ
ているのか理解できない人が多いと思う。ただ唯一理解できるのは、グレン
・グールドの音楽を聴いた幸福な人たちであろう。僕がその一人に加われたこと
を嬉しく思うし、その閉鎖性をなんとか言葉にした著者に敬意を表したい。
>グールドは、われわれ内部に住まう快楽の存在ではなく、思考する存在に語り
かけたのだ。友愛をこめて、演奏を聞く者は知的であるというにとどまらず、思
惟(信原注:しい=考えること)することができると考えていたのだ。さらにま
た、たぶん彼が語りかける相手は人間ではなく、音楽だったということができよ
う。(中略)もしも彼の指が闇の中に描き出す美しさを前にして、涙が出そうに
なったり死にたくなったりする瞬間があるとしても、彼の方では気を散らしたり
、方向を転じたり、気を逸らせたりするわけではない。
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