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最近はこんな読書26 2月4日
  言葉の面白さを楽しむというジャンルの本もある。
  ゴイのレベルが高いという面はもちろんあるが、それが中心ではない。言葉を使って遊ぶという、エラソーに言えば知的ゲームを楽しむことに似た読書もあるのだ。ざっくばらんに3冊紹介。ザックバラン?



笑犬樓の逆襲』  筒井康隆

  廃刊となった雑誌『噂の真相』に連載されていた辛口エッセイをまとめたもの。
  本書は1996年に出版された『笑犬樓よりの眺望』の続編にあたる。『眺望』がかの有名な断筆宣言の前に書かれたもので、本書は(当たり前だが)断筆解除後に書かれたもの。「天才的きちがい」の作家の本領発揮と言える快著。

  断筆のきっかけとなった「言葉狩り」について。

>「つんぼ」は漢字で「聾」と書き、龍の耳と書く素晴しい文字だ。これを「聴覚障害者」「耳の不自由な人」と野暮に言い換え、対象の欠落部分をより具体的に示すことによって、差別的ニュアンスはより強まり、今後使われるにつれてますます強まっていくとおれは思うのだが、今のところ、基本的な言語・文字感覚に乏しい人の場合はただ「聾」という伝統的な言葉のみを自同律によって差別語と認識するだけなのでそうは思わない。

  この中に含まれているブラック・ユーモア、というより言葉遊びがなかなかわかりにくい。
  筒井は言葉狩り=自主規制をする人を諭しているようで実は痛烈に罵倒しているわけだが、バトウされた人がちゃんと読解力を持っていないと罵倒されていることに気がつかない。「自同律」という論理学(だったかな、自信ないな)の用語を混ぜ込んでいるところにも、語彙豊富を自認する作家らしさが見える。

  紫綬褒章を授章された感想をTV局の取材で質問されて。

>こんな時の答えとしては「嬉しくないと言えば嘘になりますが」という陳腐な慣用句がある。わしはあれが大嫌いなので、そのパロディのつもりで「嬉しいと言えば嘘になりますが」と言ったのだが、「嬉しくないのは何故ですか」と確認してくる奴がいて困った。ギャグを説明するほど悲しいことはない。

  これも同様に「基本的な言語・文字感覚に乏しい人」をおちょくっている。
  本来の言葉を逆にして相手をからかうのは言葉遊びの基本中の基本なのだが、それ以前に本来の言葉を知らないなんていう人もいるわけで、「お前らみたいなお利口には何を言ってもわからんのだな」と遠まわしに書いているわけだ。

  本質的な議論を茶化した言葉に変えるのもうまい。
  アフガニスタンでビンラディンを追跡する戦争が始まって。

>わははははははははははははは。またしても始まりおったのう。ぼくたちの好きな戦争(C:小林信彦)が。お前ら若い者も戦争に行け行け。戦争は面白いぞ。何っ。日本は戦争できないじゃと。馬鹿を言え。後方支援やっとるじゃないか。どの口あけて戦争していないなどと言えるんじゃ。毒食らわば皿までじゃないか。そんならアメリカの後方輸送部隊、あれは戦争しとらんとでも言うのか。馬鹿も休み休み言え。自衛隊が戦闘行為やらんというなら、お前ら義勇軍で行け。行け行け。行ってテロの元締めデッド・オア・アライヴ、やってこい。

  あるいは、シラク仏大統領とブッシュ米大統領の架空の会話。
  ブッシュが「協力してくれる国もたくさんある」と言ったあとで。


シラク   日本。わはははははは。あんな軍事力のない国が協力するて、何協力するんじゃい。
ブッシュ そやさかい、戦争終わったら、あと片づけさしたるんじゃ。喜んでやりおるやろ。
シラク   そらまあ、あれアメリカの犬やさかいな。情けない国じゃ。

  無茶苦茶である。
  しかし、これは2003年5月に掲載されたもの。ご存知のように、日本は「あと片づけ」を実行したわけだ。2007年の夏には「あの後片づけ、やっぱやめとき」という世論になったわけで・・・。


  なお、本書の連載時のタイトルは『狂犬樓の逆襲』であったそうな。
  ところが新聞広告に載せるときには「『狂』の文字は使ってはいかん」ということで、このタイトルに変更されたということ。

>なにぶんいい加減歳をとってからのエッセイでな、人間が穏やかになってしもうておって、最初の意気込みほど無茶苦茶はできず、読み返して見るとちっとも狂犬らしうないので・・・。

  筒井康隆、やはり敬意を持って「天才的きちがい」と呼ばせていただきたい。


余計な注:最初の引用文の「基本的な言語・文字感覚に乏しい人」のところは「文盲(同然)」と書きたかったはずだが、それを意図的に避けることでギャグにしているのだろう。直前に聾者が出ているから、盲人とヒッカケている。聾という言葉を使ってはいかん、とする人々を非難しているため、わざわざ避けているわけだ。このあたりのブラックな言葉遊びは筒井のお家芸。たしかにギャグを説明するのは悲しい。



デキる人は「喋り」が凄い』  日本語向上会議編

  「正しい日本語」を説く本。
  間違いの日本語のレベルが低すぎて笑ってしまうほど。引用ではなく、その一部を紹介。上が誤用で、下が「正しい」とされるもの。

・餅屋は餅屋
    ↓
  餅は餅屋

・「お口汚し」を「おくちきたなし」と読む。
    ↓
  「お口汚し」を「おくちよごし」と読む。

  本当にそんな間違いをしている人がいるのかなあ、と不安にもなってくる。
  「おくちよごし」は漢字だけ見て読み方を間違えたという例で挙げられているにせよ、文字で読んだ「お口汚し」を会話で使おうとする、なんていう人がいるもんなのでしょうか。いるんだろうな、たぶん。次は引用しますが、これもなかなかの爆笑です。

>上司から飲みに誘われ、「お、君はいける口だね」といわれ、「いけてる」と同じことだと思うのも大変な勘違いだ。「課長だって、いけてますよ」などと答えないように。

  ・・・えーっと、カッコイイとか流行だとかの「イケテル」と、酒が強い・好きの「いける」の誤用ということです。
  なんだかすごいことになって来ましたね、平成の世。言葉に限らず世代間格差は激しくなっていると思うけど(時代の進歩のピッチが早いため)、ここまでとは。

  僕は何も、正しい日本語だけを使えなどという主張をする気はない。
  正しいとされる「的を射る」が「的を得ている」と書いてあったって(また発話されたって)、それはそれで程々にOKじゃないかと考えている。言葉における「正しさ」なんていうのは不安定なもので、恣意的で、流動的なものだ。入試のようなゲームはともかくとして、言葉の由来がどうあろうが、もともとはそうであったという歴史があろうが、いま通じる言葉は許してあげようじゃないか、と思う。

  だから本書を読んで「そうか今度からは気をつけよう」と思ったところはなかった。
  いやむしろ、「イケテル」と「いける」を混同するという人が広い世間にはいるのだな、と感心してしまったくらいだ。そもそも、言葉とは使い方を間違えるのが自然なものでもある。それは本書にも見られる。

  あるページの記述。
  必要のない重ね言葉は正しくない、という主張。

>「不快感を感じた」というのは言葉の重複なので、「不快感をもった」あるいは「不快を感じた」が良い。

  どうでしょうね。
  不快感を感じた、そんなに変でもないかと。「旅行に行く」って別におかしくないし(僕は意図的に「旅行に出る」と書いてはいるが)。ところが、別のページに移ると、以下の記述が出てくる。ら抜き言葉について。

>「いま、出れないから、用件を聞いておいて」と答えたら、違和感を感じないだろうか。

  ほらね、「違和感を感じない」って自分たち(編者たち)も書いてるじゃないか。あ、「い」が抜けてしまった(^^ゞ

  ところで、上記のように知らないことはほとんど出てこなかったが、いくつかあった例外の1つ。
  結婚式の招待状などにある「ご芳名」。返信のときに「ご住所」などと同じく「ご」を削除するもものだが、これは「ご芳」を消すのだそうな。「芳名」自体が「お名前」くらいの敬語で、「ご芳名」は実は二重敬語だったのだ。いやはや、これは知らなかったな。盲点。

  というわけで、読んで損をしたとまでは言えない本だった。
  ときに、お味噌汁の別称「おみおつけ」。三重敬語だってむかし書いたけど、知ってました?(事情は文末)



はかり方の日本語』  久島茂

  大邸宅を想像してください。
  お屋敷です。お金持ちとか社長とか将軍綱吉とか、そういう人が住んでいる家です。我々庶民が住んでいるようなウサギ小屋ではなくて、光源氏みたいな貴族が住んでいる家です。

  想像できましたか。
  では、その家を一言で描写してください。金持ちぃーとかいうことじゃなくて、あくまで誰かにその家の様子を伝えるように。ご自分なりの表現を用意したら、この文章の下にある画面に移ってください。画面をスクロールするんですよ。そこに2つの予想される選択肢を置いておきますから。いいですね?

  Are you ready?


1、なんて大きい家だ。
2、なんて広い家だ。


  本書は題名そのまま、日本語における数量・大小などの「はかり方」の表記を巡る論議をするものです。
  このエッセイでは、その一部である「広い」と「大きい」の違いを要約してお伝えします。そのまま引用したほうがいいんだけど、すごく長くなるから。

  さて先ほどの光源氏が住んでいる家の描写。
  あなたはどちらに近い(または同じ)表現を選びましたか。もちろん、どっちもフツーに使える日本語で、どっちが正しいとか、そういう下らない正論を吐く本ではありません。「なぜ同じ家を見ているのに、大きいとも広いとも言えるのか?」、これが論点です。


  「1、なんて大きい家だ。」派のあなたが考えたことを推測します。
  あなたは、その家を外から、つまり建物外からその家=建物を見ていますよね? そうですねえ、ヘリコプターに乗って皇居を見下ろすとか、地面から首相官邸を見ているとか。建物の外観に注目しているでしょう。その建物と自分の距離はともかく、その建物を「物」として見ていませんか?

  「2、なんて広い家だ。」派のあなたが考えたことを推測します。
  あなたは、その家の中にいますね。つまり建物内から建物の内側を見ていますよね? そうですねえ、TVドラマ『華麗なる一族』のアノ人が住んでいた家みたいな。立派な家具やベットやシャンデリアを見ているでしょう。自分が住めるかどうかは別として、その建物を「空間」として見ていませんか?

  同じ物体を見ていても、それを物として捉えるか、空間として捉えるか、その違いから「はかり方」の日本語が異なってくる、これが本書の内容の一部です。

  ところで、僕の家にはダブルベッドがあります。
  女子の来客があって、そのダブルベッドを見たとします。えっと、仮の話ですからね、あくまで。

・「大きいベッドぉ」と彼女が言った場合は、まあいいです。
・「広いベッドぉ」と言った場合は、足払いです。

後者の仮の来客女子は、そこを「空間」として把握していますからね。

  ・・・って、そんな例は本書にはありません
  他にも、人間の顔を描写するのに「鼻が高い」と言う一方で「彫りが深い」と言う理由(鼻が浅いとは言わないし、彫りが低いとも言わないでしょ?)など、面白い実例が満載です。かなり、読者を選ぶ本だとは思います。


答:漢字で書くと「御御御付」。汁をあらわす「付(つけ)」に「御」が3つついたもの。

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