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カルチャーショックというワナは、いつもどこかで我々を待ち受けている。
カレーライスにソースをかける人。鼻をかむときにティッシュペーパーを半分
に折らない人。割り箸を割ったあとにすり合わせる人。カレーライスを全て混ぜ
合わせて食べる人。トイレットペーパーの使用後に必ず三角折りをする人。豆腐
を洗う人。腕時計の時刻を毎日あわせる人。卓上用カレンダーをわざわざ買う人
。汗をかいていないのにタオルをいつも手にしている人。カレーライスのスプー
ンをコップの水にひたしてから食べる人。
異様にカレーライスの話が多い気もするし、「カレンダーくらい買えよ」と思
う人もいるだろう。
それはいいとして、自分としてはありえない(または当然すぎる)ことを平気
でやる(またはやらない)人というのは、どこにでもいる。大昔の大学受験の長
文みたいに、海外に行って初めてカルチャーショックを感じる、なんてことは普
通はない。いつも、あなたがそこにいて、誰かがそこにいれば、カルチャーショ
ック体験チャンスは大洗海岸のアンコウのような大口を開けて待ち受けている。
手に文字を書く人々の話だ。
僕がはじめてそれを目にしたのは、小学校に入ってまもなくだと思う。学校の
先生に何かの用事を(今日は給食代の袋をお母さんに渡してきてね)告げられた
とき、彼は、または彼女は、鉛筆を手にとる。
「きゅうしょくふくろ」
このように手に文字を書いた。
手に。手に文字を? なんで。忘れないようにするため? 文字を手に。えん
ぴつで。その手は、洗わないの。文字は落ちないの。書いておくと忘れないって
こと? おまじないとか。
そんなことがあっていいのだろうか。
倫理的に、許されるのだろうか。この人は、手は文字が書かれる場所だという
世界観を持って現世を生きようとしているのか。生きてきたのか。イッツ・アナ
ザー・ワールド!
と僕は思った(小学生なので英語が不自由らしい)。
それにしてもな、と僕は観察する。手に書かれた文字は消えないのだろうか。
えんぴつで紙に書かれた文字は、指で消えてしまうこともある。じっさいに、文
字を間違えると指で消そうとする人がいて、消しゴムを使うようにという指導が
先生によりなされてきた。文字は消えないのか?
しばらくすると、彼は、または彼女は、僕の心配をよそに、更なる情報を追加
する。
先生が「明日は大掃除だから三角巾をもってきなさい」と言ったのだ。ああ、
もしや今いま今、きみは今。
「さんかっきん」
こ、これで二つの文字が手に、お前の手に。
きゅうしょくふくろ、さんかっきんと書かれた手がそこにある。本当か。本当
なのか。文字が身体に刻まれることは、自分と世界の分化を拒絶する所為である
ことを君は知らざりしか。いわんや、その文字は今にも消えようとして、あるい
は消える運命を課せられたままに、その役割を遂行してのち消え去っていくよう
に君は留意するだけの注意力ある人間なのか(小学生なので日本語も不自由らし
い)?
このあと、彼または彼女が3つ目以降の文字を次々に手に書きとめていったの
は言うまでもない。
3年ほどが過ぎた。
僕はそのとき10歳になっていて、自我同一性の確立を意識し始めていた。自分
が自分であることは他者は他者であることと交換不可能であり、ゆえに自分は他
者と異なることは自明であるという、わりに基本的なアイデンティティーである
。
いるのである、けっこうな数で。
手に文字を書く人々は、クラスに4、5人、つまり子どもの全人口の1割ほど
もいるのである。彼らはすでに年を食っているので、鉛筆で書かれた文字は消え
やすいという事実を文字通り体得していた。つまり、サインペンやボールペンで
文字を手に書き綴っていくのである。
痛くないのか、というのが小学校3年生くらいまでの僕が感じたカルチャーシ
ョックだった。
鉛筆ならともかく、明らかに先の尖ったもので身体にキズをつけていく。それ
は文字というかたちを取っているけれど、キズでもある。まあそれはいい。観察
していると、彼らは、つまりかつての僕がカルチャーショックを感じた「手に文
字を書く人々」の行動パターンがわかった。
記述はキーワードに限られる、ということだ。
たとえば、「給食代」「三角巾」というように、常に名詞化される。ときに、
「水曜日、軍手」などと期日が設定されていることもある。彼らの手は僕と同様
に大きくなっているから、そこに所収できる情報量も飛躍的に増えている。利き
手と反対側の手は、以下のようになっている。
「体育プール」
「図工クギ5センチ」
「委員会火曜」
これが手のひら。
読者諸氏が想像するように、手の甲にも記述がある。
「絵の具みどり」
「山内パン」(←意味不明)
「あしたがばん」(←画板と書けないらしい)
間違っても、文章化されていることはないし、覚えておくべき用事以外が記さ
れることはない。
たとえば、
「そのとき僕は妙子の右手を取り、フィギュアスケートのペアがそうするように
、彼女のからだを僕の方に引き寄せた。妙子はまんざらでもないようなフリをし
ながらも、照れを隠すことはできなかった。僕はほのかな炎を身体の底に感じた
」
などのように。手に小説を書く人は見たことがない。
それはさておき、10歳になった僕は、もうカルチャーショックを覚えるほどウ
ブではない。
そうだ、これは曼荼羅のようなものなのだ。自分の属する世界を、文字という
形式を取って画像化し、それを手に記すことで自己が身体によって世界とつなが
っていることを意識する宗教的行為であるのだ、と。僕が知ることのない、交わ
ることもおそらくない、もう1つの世界に君は生きているのだね、と。
あるいはむしろ、人はこういう感慨をカルチャーショックと呼んでいるのかも
しれないけれど。
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