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件名は、文豪・永井荷風による20世紀前半の日記。
「断腸」は癇癪持ちであった荷風自身のことを指しているし、また同時に胃腸
が弱かった荷風のことも指しているようだ。日記の中でもカンカンになって怒っている記述がたくさんある。
>酒館の女給仕人美人投票の催ありて両三日前投票〆切となれり。投票は麦酒一
壜を以て一票となしたれば、一票を投ずるに金六拾銭を要するなり。菊池寛某女
のために百五拾票を投ぜし故麦酒百五拾壜を購ひ、投票〆切の翌日これを自動車
に積みその家に持ち帰りしといふ。これにて田舎者の本性を露したり。
菊池寛のことがとりわけ嫌いであったらしい。
ちなみに「文壇」も嫌いであったらしく、他の作家との親交のシーンはほとん
どない。子どもも大嫌いであったのがわかるのは以下の通り。
>昏刻出でて銀座風月堂に飯す。三、四人の子供をつれて食事に来れる客あり。
相応の風采をなす客なれど、その子供は猿の如く、室内を靴音高く走りまはり、
食卓の上に飾りたる果物草花を取り、またはナイフにて壁を叩く。父母とも見ゆ
る者これを制せむともせず、その為すがままにして置くなり。他の客または給仕
人の見る前を愧る様子もなし。今の世の親たちは小児のしつけ方には全く頓着せ
ざるが如し。
年賀状が来てもブチキレ。
>一九三一年元旦前後と書きたる印刷葉書を送り来れり。元旦前は旧ろうならず
や。くだらぬ事をわけあり気に仔細らしく理屈ッぽく言うは今の人の口癖なり。
上記の引用の「旧ろう」の「ろう」は旧字である。
僕のPCでは変換することもできない。月編に「蝋」のような文字、と書いて
も正確に伝わらない。
つまり、古文のような文語文で読みにくい。
なんとか意味はわかるのだが、どうにかならないものか。旧字が多いし、いわ
ゆる「歴史的かなづかい」も多い。内容はバツグンに面白く、人のことは言えな
いが現代のウェブ日記とは比較にならない。これだけの内容が、文章が読みにく
いというだけの理由で読まれないのは残念なことだ。
この5年ほど、海外文学の「新訳」が流行している。
文学の翻訳が増えてきたのはせいぜい20世紀に入ったころだろう。特に有名と
される文学で、今でもその翻訳が出版されているのは、どんなに最近でも戦後の
翻訳が多いのではないか。21世紀に入って、50年以上も経った日本語が読みにく
くなったから、「新訳」が試されるようになったのだろう。
読みやすい日本語になったことで、名著が再び世間で認められる。
いいことではないか。言葉はいつか古びる運命にあり、文学もある意味ではそ
うである。でも、言葉が古くなるのと文学が古くなるのを比べれば、言葉の「退
化」のほうが早い。
単純に読みやすくなるだけで、文学が復活させられる。
もちろん言葉に付随した文学の持つ側面は捨てられていくことだろう。吉行淳
之介の小説から、あの字ヅラの雰囲気を消し去ってしまえば、面白みは減るだろ
う。それは十分に承知している。
それでも、と僕は思う。
この『断腸亭日乗』も現代語に「翻訳」されればいいのに、と思う。正確な「
翻訳」でなくてもいいではないか。いや、プロがやればそれなりの再現性はある
だろう。ということで、ザッと読んだだけの上に辞書も引かない僕の「新訳」。
1927年1月6日。
>夕方銀座に行こうと歩いていると、ガキの群れが私の姿を見つけて「やーいや
ーい荷風やーい。永井荷風だぞう!」などと叫びだす。なんだと思ってガキども
のほうを見ると、皆で大笑いして拍手してクモの子を散らすように逃げていく。
狂人とか乞食を小ばかにするのと大して変わりがない。
だいたい、このへんのガキどもがどうして私の名前を知っているのか。こうやっ
て小説なんぞ書いているからいけないのか。世の中の雑誌だの新聞だのが私のこ
とを面罵するのは、私がその手のものを読まないことにしているから我慢できる
。ところが、そのへんのガキどもに小ばかにされるのは避けようがない。
かなりヘンなおっさんである。
本書のこの部分は改行されていないが、ここはウェブ上ということもあるので
適当に改行した。前述のように辞書も引いていないし、ざっと読んだだけなので
正確な「訳」にはほど遠い。それでも、荷風の面白さが伝わってくる。
1928年7月15日。
>いらなくなった原稿用紙がたまったから庭で燃やしていたところ、近所の人が
「火事か火事か」と大騒ぎしたことがかつてあった。巡査までやってきて「ボヤ
でもありましたか」なんて質問してきた。しょうがないからたまった原稿用紙を
家に溜め込んでおいたけれど、いいかげんに溜まり過ぎてジャマだ。
病院にいったときに「どこかにこっそり捨ててしまえ」とそれらを風呂敷に包ん
で持参し、どこかいいところがないかなと歩いていたら新大橋のふもとに出た。
連日の雨で水かさが増していて、流れが激しい。へっへっへっ、捨てるにはちょ
うどいいわいと船着場にいって切符を買い、船の桟橋に出る。人目につかないよ
うに原稿用紙を包んだものを水中に落としてやった。ところが包みは浮かんだま
ま流れていかない。桟橋に引っかかってしまった。
しょうがないなと傘の先っちょで押しやってみたけれど、うまくいかない。そう
こうしているうちに船が桟橋にやってきて、船頭が客の乗降を誘導しているとき
に、その包みを見つけてしまった。船頭は器用に包みを拾い上げて、桟橋にいる
係員に渡してしまった。「しまったッ!」と思ったけれどどうしようもなくて、
「わし、関係ないから」と船に乗る。
永代橋まで下った。今日は雨模様で、そこから歩いて帰るのは難儀だ。仕方がな
いとふたたび船に乗って新大橋に戻る。桟橋に上がると、さっきの包みは桟橋の
係員の椅子の上にまだ残されていやがる。もうダメだと諦めて、係員に「それ、
さっきわしが落としてしまったのだ」と言って取り返す。特に怪しまれた様子も
ない。風呂敷に包んだ原稿用紙は水に濡れて、最初の2倍くらいの重さになって
いる。しょうがないから持って帰ったけど、重くてしょうがなかったよ。とほほ
。
ヘンすぎるでしょう、この人(-_-;)
本書には何ということもない「日常」が満載されているけれど、これらのよう
にイキイキとした描写もたくさんある。後世に本書を残すためにも「新訳」は必
要ではないか。シドニィ・シェルダン的「超訳」とまではいかなくても、面白い
部分だけ抜粋して(今の上下巻を20%くらいの量にして1冊、改行多数で読みや
すく)もいいだろう。面白い「コト」を書くことができる人はたくさんいるけれ
ど、面白い「モノ」を持っている人って、あんまりいないから・・・。
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