予備校講師でわるかったな!





各ページのご案内はコチラ 

proflile 自己紹介

diary 日記

essay エッセイ

bbs 掲示板
  

Copyright (c) 2004 
takeshi nobuhara All Rights Reserved. 

essay エッセイ
『断腸亭日乗・下』 4月16日
  件名は、永井荷風によって1917年から1959年に書かれた日記の抜粋。
  僕が読んだのは岩波文庫の抜粋版で、完全版は別に出版されているらしい。


  上巻とは違って、やや時代が下ったせいもあり、記述は読みやすいものになってくる。
  本書の「解説」と重複して恐縮だが、1941年6月15日の日記から記述スタイルが変わってくる。それまでは軍部批判などの記述を墨塗りして、いわば一種の「自己検閲」をしていた。本書の上巻には「5字抹消」などの記述がそのまま転記されていた。しかし、このころ荷風はある作家の随筆を読んで感動し、方針を変更した。


>これからは少しもひよることなく、この日記を後世の史家が利用できるものにしてやろう(要旨)


と決意し、その後いっさい自己検閲はなくなる。歯に衣を着せることを知らなかった自由な作家の風情が読み取れる。



  戦争の記述が興味深い。
  昭和20年3月10日の東京大空襲の様子(未明だったためか、日記の日付は3月9日)が描かれている。家を失い、知人の家に一夜の宿を借りたり、数日後に消失した家を見に行ったり、その後疎開するシーンや、そのための鉄道切符を入手する難しさなども描かれている。

  もちろん僕も戦争を知らない世代だ。
  あの戦争の様子がどういうものだったのか、推測することはできても実感することはできない。広島や長崎といった被爆地を訪問したこともあるし、沖縄に残る戦争の傷跡(を後世に残そうとする施設)を見たこともある。それでも、「本当に日本は戦争をしていたのだろうか」という本質的な不信感はぬぐえない。どうしても、身体にコミットしてこないというべきだろうか。

  本書の、この戦争に至る日々を描く荷風の文章を読んでそれがわかったか、と言えばそこまではいかない。
  戦争に向かっていく空気、足りなくなっていく食料、奪われていく自由、空襲警報におびえる日々、そして実際の空襲、逃亡、疎開、終戦。荷風の筆はあっけないほどのスピードでそれらを描いていく。僕はその文章の中に、あるいはこういう言い方は失礼かもしれないのだが、

「そうか、本当に日本は戦争をしていたようだな」

という感慨を持った。やはり「していた」と断言はできないのだけど、実感に迫るものはあった。日記という個人的な手記にある現実感が僕に響いてきたのかもしれない。


  終戦の1945年に68歳であった荷風は、1959年に81歳で亡くなった。
  戦争の余波も消えつつあったであろう(もちろん残ってはいただろう)1950年ころからは、日記の記述が短くなり始めた。昭和30年・1955年に77歳になったころには、日記は日誌の様相を帯びた。日付、天気、浅草に行ったこと、食事をとった店の名前、程度になった。80歳を迎えた1958年には、日付と天気を記すのみ、という日が多くなった。



三月三日。陰また晴。正午浅草。
三月四日。晴。正午浅草。食事後直に帰宅。
三月五日。晴。正午浅草アリゾナ。夜月明。


  最晩年の1959年になって、それまで通いつめた浅草にいく元気をなくしたようだ。
  この年になって初めて、自宅近くにあった料理店『大黒屋』の記述が現れる。今も京成八幡駅前にある古い店だ。荷風は終戦直後に市川市菅野に転居し、最後の数年だけ市川市八幡に家を構えていたようだ。この日記は、荷風の死の前日まで書き継がれた。最後の日記。



四月廿九日。祭日。陰。


  たったこれだけ。
  翌日に死ぬことになる荷風は、何のために日記を綴ったのだろう。習慣という名の鎖だといえばそれまでかもしれない。日付と天気(「陰」は「くもり」と読む)だけ書いても、他の1日と区別がつかないではないか。その1日は特別な1日ではなかった、という記録なのだろうか。よくわからない。

  僕の親戚にも、日記というより簡単な日誌をつけている人がいる。
  カレンダーに天気と最高・最低気温を書き付けるだけのものだ。やはりどういう意味があるのかは僕にはわからないし、本人に質問するわけにもいかない。その日記なり日誌なりは、後世の人が読んでも何の意味もなさないだろう。そしてきっと、書いている本人がそれを読み返すこともないだろう。

  僕はこうして、4年以上にわたって日記をつけている。
  このHPで公開するのが目的で、個人的につけている日記はない。つまり、人様に読んでもらうのが前提で、最終目的にもなっている。日付と天気だけでは誰も読まないだろうから。

  荷風の日記は、上記のようにもともとは後世の人々に読んでもらうために書かれていた。
  自己検閲をしたのも、それをやめたのも、読まれることが前提になっている。そして、読む価値があるとも思えない日誌のようなものになっても、書き継がれた。翌日には死んでしまうのに、なぜ日記を書かなければならなかったのだろう。



  本書を読み終えて、僕は泣いた。
  日記なんて書いても書かなくても、どうせ死ぬのだ。荷風だって、翌日に自分が死ぬとは思っていなかっただろう。だから書いたはずだ。しかしまた一方で、死ぬことを予期しながら書いたのかもしれない、という思いもある。ならば、なぜ書く必要があったのか?

  どうしてもわからない。
  とにかく荷風はこの世から消えて、この日記だけが残った。日記を書くことの意味を、たとえば僕に、考えさせるためだったのだろうか。もちろんそんなはずもない。形見として残されたのは、ただの空箱だった、というような不思議さだけが僕には残った。


essay エッセイ  
これまでのエッセイはコチラ