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手話はつらいよ2 1月27日
  手話教室に行くと、鬼講師T先生がろう者2人をつれて登場。
  50代半ばのオジサンたちである。T先生がコーヒー店にいたところ、たまたま2人に会ったので連れてきたとのこと。緊張するね。


  さっそく自己紹介。

「こんにちわ、はじめまして、僕の名前は信原です」

と示す(このくらいは簡単にできる)と、ろう者2人が討議を始める
  ろう者Aさんはすぐに「信原」と理解できたけれど、Bさんは「原」が理解できないらしい。僕は「信(のぶ)」のほうが通じないだろうな、と恐れていただけに意外。「信じる」という手話に口話(こうわ=いわゆる口パク)で「のぶ」と示すのだけど、よくある苗字ではない。

  ろう者2人はいつまでも手話で僕の苗字について議論している。

A「だからさ、原っぱの原だよ、これこれ」
B「えーうそぉ。ハラってのは腹の動作でやるもんだろう」
A「違うってば。漢字が原なんだから腹ではやらないよ」
B「やるってやるって。漢字がどうだってハラは腹で示すんだって」

  鬼講師T先生によれば、だいたいこんな会話らしい。ろう者がそれぞれに独自の手話を使うから、この手の行き違いが多くなり、健聴者からすると「いつまでその話やってんだ?」と思うことがよくあるそうだ。


  AさんとBさんが別々に我々生徒数名とフリートーク。
  T先生は本当に困ったときだけ通訳をする程度で、

「とにかく何があっても意味だけは伝えろ、わからないときは真似して何度でも質問しろ。でも、わかったときはわかったって伝えないと、ろう者は何回も説明を繰り返すよ」

と仰せになる。筆記用具は使用禁止。筆談はできないわけである。ハードル高いよ(-_-;)

  しかし、意外に通じるものだ。
  手話単語がわからないときは、その動作を真似して「それ、わかんないよ」と伝える。こう書けば簡単だが、知らない手話動作を真似するというのはメチャクチャ難しい。AさんもBさんも我々が素人だとわかっているから、

「あんたらにこれは通じないか」

ということは何とか伝わるようだ。空書(くうしょ)と言って、空間に文字を書いたり、机に指で文字を書いたりして説明してくれる。もっとも、その空書が

漢字なのかヒラガナなのかカタカナなのか

前もって知らないから、何回か繰り返して書いてもらうことも多かった。言葉の理解って、文脈に依存する度合いが高いからね。


  AさんとBさんの違い。
  Aさんは多少でも耳が聞こえるらしく、部分的な発音は聞き取れるらしい。我々生徒が手話動作をしながらしゃべるという条件はつくが、この差は大きい。ゼロとほとんどゼロには大きな差があると一般に言うように、3文字程度の日本語がコトバで通じるのはありがたい。

  いっぽう、Bさんはほぼ聞こえていないようだ。
  そのかわり、手話表現の数が多い。たとえば「電車」という表現は3つあるんだ、なんてことまで教えてくれる。ただし、話の進み方が遅い。生徒が「それはわかったよ」という表示をしても、何度も説明してくれる。たぶん、こっちの「わかったよ」が通じているのに、いやに丁寧なのだ。


  Bさんのほうが通じにくいけど話しやすいかな、とも思う。
  Aさんの説明はシンプルで、「この意味なら、この表現。それ以外ナシ」というイメージ。僕の素人目で見るかぎり、

Bさんは最初からろう者で、
Aさんは中途失聴者じゃないか

と思われた。

  Aさんは日本語対応手話が多い。
  この単語はこうやると決まっている手話のこと。先の聴き取り能力からしても、日本語対応手話から覚えたという気配がある。

  Bさんは指文字がほとんどできない。
  指文字とは五十音の1文字ずつに対応する手話単語である。ところが、Bさんは必要ないからなのか、「僕は指文字ちゃんとできないよ」なんていうことを言ってくる(もちろん手話で、である)。実際に、苦し紛れの指文字は僕らと同じレベルでたどたどしい。


  おもしろいなと思ったいくつかのことの1つは、本来の話題に関係ない手話が多く混じることだ。
  たとえば、僕が

「2人(AさんとBさん)はどうやって知り合ったの?」

と質問すると、

「小学校と中学校は別々で、高校が一緒だったんだ」

とかえってくる。もちろん最初は「小学校」という単語がわからず、次は「中学校」がわからず、さらに「別々」がわからず、やっと文脈で「高校」は理解できる。そして上記のセリフだったと理解できる。だけど疑問は残る。

なんで初めから小学校と中学校の話題を省かないんだよ!

  これはたぶん、我々が初心者だから丁寧に伝えようとしてくれたためだろう。
  T先生も以前から「ろう者の手話って、異様にまだるっこしいときがあるし、それでかえって話が見えなくなることがあるんだ」と仰っていた。伝えようと思う心の動きが、どうやって実際の表現(健聴者は言葉、ろう者は手話)になるのか、僕は昔から考えているのでとても楽しかった。


  思考はいつも言葉を必要とする、と言う。
  本当だろうか。言葉は伝達手段にすぎないんじゃないか。また、われわれ健聴者が言葉というときは書き言葉なり話し言葉のことを指す一方、生まれつきのろう者にとっての言葉は手話なのだろうか。さらに、Aさんのように中途失聴者(推定だが)は、果たしてどちらの「言葉」を使って考えているのだろうか。

  僕にはわからない。
  言葉はどこから出てくるのだろう。脳だろうか、手だろうか。それとも、どこか別のところ?

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