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最近はこんな読書30 5月5日
  こころをしっとりとさせてくれる本がある。
  僕たちはかならず誰かと血でつながっている。そのつながりは今まで絶えることはなかったし、きっとこれからも続いていく。いわば生命の環を自覚することが、生きることの自覚なのかもしれない。そんなことを考えてしまう本を2冊紹介する。



  『ボブ・グリーンの父親日記』  ボブ・グリーン(訳;西野薫)

  名コラムニストとして知られる著者による、子育て日記。
  1982年6月11日、著者が結婚して11年目に、初めての娘アマンダが誕生する。日記はアマンダが産まれてくるシーンに始まり、1歳の誕生日パーティーが始まる朝まで続く。著者が遠い場所へ出張する何日かをのぞいて、日記は毎日記される。序文から。


>何かいい本はないかと捜しているうちに、結局、自分でこの本を書くことになった。
  自分が父親になるとわかった時、まず頭に浮かんだのは、親になるとはどんなことかについて書いた本を全て読もう、ということだった。いったいどんな風になるのか全く見当もつかなかった。


  著者である父親は、この世代によくあるように、育児のほぼ全てを妻に任せている。
  24時間いつも例外なく娘に接する母親と、たまに娘の顔を見る父親とのあいだには確執がある。いままでいつも2人であった夫婦は、娘アマンダを得て家族に進化していく。娘と母親の絆の深さを見て、父親は戸惑いを覚える。哀れな父親であるボブ・グリーンは小さな決心をする。他人の前で赤ちゃん言葉を使うまい。

  娘アマンダはすくすくと育つ、というわけにはいかない。
  何しろ日記なので毎日のアマンダの様子が描写される。どんどん母親らしさをましていく妻の姿と、父親であることの自覚を持ち始める自分の姿をボブ・グリーンは描く。アマンダは6ヶ月くらいでハイハイを始め、9ヶ月くらいで立てるようになり、1歳の誕生日を目前にして歩くようになる。といっても、たとえば初めて歩いた翌日には歩けなかったり(歩かなかったり?)することもある。それでも少しずつ赤ん坊は人間らしくなっていく。
  三月二十一日付けの全文。


>今夜アマンダがまた泣きだした。が、今までにない変化が見られた。
  ここ何ヶ月かもずっと、夜中にアマンダが泣くと、僕たちが行って抱きあげてやらなければならなかった。お乳を欲しがっていることもあったし、そうでない時は、揺すりながら、眠ってしまうまであやしてやらなければならない。
  ところが今夜は、夜中に三回も目を覚ましたが、十分か十五分もすると、また黙って寝てしまった。日一日と自立心が芽ばえてきているようだ。些細なことのようだが、僕たちを呼ばなくても再び眠れるとアマンダが心に決めたのは、やはり一つの大きな進歩のような気がする。

  そして朝、僕たちが入っていくと、アマンダはまたベビーベッドの手すりを握って、立っていた。今ではほとんど毎日こうだ。


  父親の困惑がいつもある。
  序文で著者が書いたように「自分が父親である」ことがどういうことなのか、それを測りかねた日々の詳細な記述である。僕が男性であることも作用しているのだろうけど、「そうだよな、父親って、どこまで行っても父親であることに確信を持てないんだよな」と思わされる。父親であるという実感をつかみたくて、つかめなくて、つかめたような気になって、でもやはり・・・という弱気な父親が自分である、という告白がこの日記なのかもしれない。

  そしてまた同時に、思うところもある。
  あるいは僕がいつか「父親」になったとして、娘なり息子なりが1歳になったときに本書を再読したら、「いや、俺はこうじゃなかったぞ」と考えるのかもしれない。あるいはやはり「そうだ、そうなんだよな」と共感できるのかもしれない。その意味で、本書は父親になる前の人も父親である人も楽しめる日記文学だと断言できる。女性が読んでどう思うのかは全く想像できないけれど。



  『さらば、悲しみの性』  河野美代子

  産婦人科医である著者は、女性のからだを保護するという観点から書いている。
  高校生に限ったことではないが、望んだセックスが望まない妊娠という結果を迎え、その身体的な負担をこうむるのは常に女性である。経済力も社会的基盤もない高校生女子にとって、人工中絶という最悪の手段は最善の手段にもなっている。それがどれだけ女性のからだを蝕むものであるか。どうすれば避けることができるか。女性だけでなく、男性にも意識をしっかり持って欲しいという願いがこめられている。

  高校生向けに書かれているので、文章がわかりやすい。
  著者が「悲しみの性」の現場に立ち会っているだけあって、説得力がある。たとえば、彼がセックスを望んだからセックスをして、妊娠してしまった高校生に対して質問する。自分もしたかったのか、これからもしたいのか。「これからもしたい」と答える少女はほとんどいない。


>女性にとって、性欲=性交欲となるのは、大変なことなのです。性欲はたしかにある。しかし、性交によって性欲を解消できるかというと、これはほとんどの場合期待はずれとなります。男性が、比較的簡単に射精、オーガズムに至るのに対し、女性が性交によってそこまで到達するには、ずいぶんいろいろな要素が必要となってきます。
  こんなことは、高校生の皆さんに話すのはもしかするとまだ早すぎるかもしれません。でも、ほとんどの人間がいつかは経験することであり、そのときにより豊かな性を生きるためには、知っていてけっしてむだではないと思います。


  本書は1985年に出版され、僕が手にした文庫になったのは14年後の1999年のことである。
  著者は文庫版あとがきで、「人工中絶についてのくだりは脅しの面が強すぎた」と認めている。たしかに、性病や人工中絶や避妊といった項目では、性教育界にありがちな「だから高校生はセックスしてはいかんのだ」という論調を感じる部分が多い。性に対する恐怖を教えることは大切だけど、それが全てじゃないだろうと僕は思う。

  僕自身は、高校生や卒業生に対してセックスを奨励する発言を多くしてきた。
  この「よびわる」でもそうだし、授業でもそうだし(おいおい)、個人的なコンタクトの場合でもそうしてきた。セックスは楽しいものであり、生きる上で大きな喜びとするべきことである。この考えには一切の変更はない。

  ただ、本書を読んで感じたのは、「そうか、やっぱり若いとこういうことを自覚せずにセックスをしてしまう(または避けてしまう)のだな」ということだった。
  健康な男女がセックスをすればふつうは妊娠すること。1回だけならいいかと思ったその1回が妊娠を呼ぶこと。男性はおろせばいいと簡単に言うけれど、女性にとっては重すぎる負担であること。社会的・経済的基盤がなければ子どもは育てられないこと。母体保護の観点は、男はおろか当の女性にも欠けていること。これらは全て、彼・彼女らが若いこと、ゆえに無知であることに起因している。

  最終章「喜びの性を求めて」の中で著者は訴える。
  いくら親に反対されても、まずは相談しろ。びっくりされるだろう。怒られるだろう。泣かれるだろう。それでも最後の最後では、きっと親は味方になってくれる。親は許してくれないと思っても、おとなたちだって苦しむうちに変わることができる。そして。


>でも、どうしても親には言えないという人がいるかもしれません。そのときは、どうか、だれかおとなの人を見つけて、その人に相談してほしいのです。自分のまわりを見渡せば、必ずだれか、相談にのってくれる人がいるはずです。その人は、一所懸命、あなたのために、どうすればいいか、どうすればあなたを助けてあげることができるか。考えてくれます。おとなにとって、若い人から相談を持ちかけられるのは、とてもうれしいことなのです。
  では、なぜおとななのか――。
  それは、若い人とは価値観や性意識は異なるかもしれないけれど、おとなには、社会的知恵があります。社会的基盤もあります。豊富な人間関係もあります。世の中のことが見えています。おとなというのは、むだにただ長い間生きているのではありません。必ず、いい知恵を考えだしてくれるはずです。友達どうしで、ない知恵をしぼってみても、ろくな結果になりません。


  おとなが持つ知恵を、子どもに伝える。
  この世界の真実をダイレクトに子どもに伝える。文句なしの名著である。

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