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競馬用語に「着を拾う」というものがある。
競馬の賞金は1着から8着までに支給される。もちろん1着になればいちばん
の高額賞金を入手できるわけだが、それが望めない場合もある。勝つには実力が
足りない。勝ってしまうと上のランク(競馬界では「条件」という)に上がるし
かなく、そのランクではとても勝ち上がっていけないような場合だ。
つまり、絶対的な実力が足りない。
現状のクラスで確実に「着を拾」って、地道に低額でも賞金を稼いだほうが得
なときがあるのだ。こういうとき、その馬を管理する人々は
「着が拾えれば」
という表現を使う。勝てなくても、8着以上、もしできれば限りなく2着に近づ
いておきたいという弱気な闘い方だ。
そういう機会はいつもある。
初めから勝とうとしない戦いである。僕が小学校4年生のときの100メートル競
争はそういうものだった。たしか1学年に7つのクラスがあり、1つのレースに
は各クラスから1人ずつ出場する。選抜メンバーではなく、全員参加の低級レー
スだ。これを予選として次に準決勝・決勝と進むようなものですらなかった。
7人のメンバーは無作為に決まる。
僕が入ったレースは、いかにも足の速い2人がいた。話したことはなくても、
名前は知っているくらい。小学生の人気バロメータは2つあって、1つは勉強が
できること、もう1つは体育が得意なことだ。彼ら2人は後者に見事に当てはま
る。小学生の運動能力は、まあ相撲大会のようなものは別として、足の速さに全
てが集約される。
ついてないな、とおもう。
7人の競争で、入賞は3着まで。入賞は何によって証明されるかというと、シ
ールである。「1等」とか「3等」とか書かれた安っぽいシールをもらえるのだ
。しかも僕は足が遅い。足の速い2人(仮に山崎君と中本君と名付けよう)のど
ちからが勝つか、それだけが衆目の集まる部分だ。ふつうに考えて、それ以外の
決着はない。
幸いなことに、僕を含めた5人は同じ程度の能力しかない。
単純に50メートル走の持ちタイムで7人を比較すれば、僕は6番目くらいだろ
うか。そうは言っても、山崎君と中本君を例外とすればそれほどの差はない。こ
の2人が同じレースに出ることで、僕を含めた5人は
「もう俺たちオマケだから」
という雰囲気が漂っている。10歳くらいの小学生でも、人が集まればヒエラルキ
ーが発生することを知っている。周りがそのヒエラルキー通りの結果を期待して
いることも知っている。
つまり、5人には覇気がない。
走っても、無駄なのだ。そういう空気は、我々のレースが近くなってくるのと
足並みをそろえて高まりを見せる。
「次の次の次のレースには、山崎君と中本君が出るね。どっちが勝つかな」
という高揚感だ。かすかではあるけれど、たしかにそういう雰囲気が漂うのだ。
彼ら2人もそれを意識しているし、僕たち5人もそれを感じる。
シールが欲しかった。
今までの3年間、一度も3等以内に入れなかった。足が遅いからだ。それはわ
かっている。それでも、1回コッキリのレースだから、何とかならないかと思っ
ていた。たかがシール、されどシール、それが小学4年生のはかない希望であり
、夢だ。
3着を取るんだ。
上位2名は決まっている。しかし5人は同程度の能力なのだ。チャンスはなく
はない。ついているのは、他の4人が無気力になっていることだ。レースが近づ
くにつれ、横に並んだ彼らから空気が伝わってくる。どうせこのレースは俺たち
のものじゃない。山崎君と中本君の決戦レースなのだ。
100メートル競争は直線ではない。
たぶん200メートルトラックだったと思う。1回だけコーナーを回る。能力差が
大きければ実力通りの結果になるが、コーナーの位置取り自体で有利になること
はある。5人の実力差は小さいのだ。初めから3着を取るつもりで走ることは不
可能ではない。きっと、チャンスだ。何もないよりは良い。着を拾うのだ。どう
しても3着に入るのだ。シールをもらうのだ。
スタート!
予想通りに山崎君と中本君がコーナーに入る前に先頭に並ぶ。
たぶん30メートルくらいのスタートダッシュで、それほど明確な差がつくのだ
。どうみても能力差がハッキリしている。小学生でも能力差はすでにここまでの
実になっているのだ。勝てるわけないじゃん、3着3着。
コーナーは40メートルくらいなのか。
コーナーに入る前に、山崎君と中本君の後ろにつけていくことができた。3番
手でコーナーを曲がるわけだ。これでかなり有利になった。ちょうど算数で「円
周の求め方」を勉強したころだったので、僕は内ラチ一杯に走った。最短距離で
、先を行く2人を壁にして回っていく。
最終コーナーである第2コーナーを回る地点で、僕と前の2人の差はすでに2
メートル以上ある。
速すぎるよお前ら、でも3着はあるかもと思った瞬間にアクシデント。コーナ
ー出口で加速しすぎた2人は、どちらかがどちらかにぶつかって、転んだ。歓声
が上がる。悲鳴かもしれない。よく聞こえない。転倒した2人を交わさなければ
。
差が開いていたことが幸いした。
僕は2人の転倒の影響を受けることなく、トップに躍り出た。残りはすでに30
メートルもない。転倒した2人の様子は知らないけれど、残りの4人が「あっ」
と思った気配だけは背中に伝わってきた。しまったという空気。
僕はそのまま1着でゴールした。
差を詰められた気配もなかった。山崎君と中本君をのぞけば能力差はないから
、残り30メートル程度では抜かれるはずもないのだ。ゴールのテープを切るって
こういう感じなんだ、とおもう暇もない。
「1等」と書かれたシールをもらえた。
嬉しかった。完全に棚からぼた餅なのだけど、勝ったものは勝ったのだ。誰に
も批判する権利はない。そうだよね、初めから着を拾いにいったのが良かったん
だ。何かを諦めて、もう1つ下のレベルを目指すことの重要性を、僕は10歳のと
きに学んだ。
シールはどこにいったのか、もう覚えていない。
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