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最近はこんな読書33 2月15日
  読書とは自分との関わりである。
 本を読む行為はどこかに置いてあるものではない。自分の中に、その本の著者の視座を持ちこんでみようとする試みである。この試みは虚しい結果に終わることもあれば、自分にとっての新しい視座の1つを形成することもある。どちらになるのか、どちらにもならないのか、読み終えてみなければわからない。


仮面の告白』三島由紀夫

  人生でもっとも多く薦められた作家である。
 具体的には、「信原はミシマを読んでみるべきだよ」とたくさんの人に言われた。10人とかでは ないけれども、2人や3人ではない。ミシマを薦める時点で彼・彼女はある程度以上の読書家であ り、薦められる僕もそうなんだろう。

 なぜミシマなんだろうか?
 どうしてもわからない。人に薦められた本は面白くないというのは読書家にとっての定説で、僕 も人様に誰かの作家を薦めたことはほとんどない。自分にとって面白い本は、いつか自分で手に取 る(という運命にある)と信じているのも読書家の傾向かもしれない。

 では、なぜミシマ。
 僕はわりに本を読むほうだけど小説はそれほどたくさん読まない。たとえば第3の新人あたりは 完全に未読だし、ロシア文学なんかもほぼ無縁だ。小説の話をすることを好むわけでもないし、文 学青年であった記憶もない。


 思いあたることがあるとすれば。
 僕が好む数少ない作家たちであろうか。しかし上述のようにたくさん読むわけでもないから、い ま好きな小説家を5人挙げろと言われたら困る。無理してみれば以下の通りか。

・村上春樹
・夏目漱石
・白石一文
・辻仁成
・島本理生

やはり無理がある。辻はもう5年くらい読んでいないし、島本も最近では文庫落ちを待つ程度だ。 漱石は多作だから未読がたくさんあるし、春樹はコンプリートしているけれど作品数が少ない。

 この観点から容易に想像できることがある。
 春樹とミシマの関係である。春樹は漱石への傾倒を部分的とはいえ匂わせている(思慕とまで言 えなくても、影響下にあることは間違いない)。いっぽうで春樹がミシマについて語ることは(僕 の知る限り)まったくない。だからかえって、春樹がミシマを意識しているという指摘はときに見 られる。

春樹好き→ミシマ好き

という公式なり流れなりが成立する、という見方を持つ人たちが僕にミシマを薦めているのではな いか。


 それとも、人格との共通点だろうか。
 もちろんある人の人格を一言であらわすことはできないが、僕にも「とある種類の」人格がある 。それにマッチする、あるいは糧にできる(と少なくとも彼・彼女が思っている)小説を書くのが ミシマということなのか。

 あるいは、僕が書く文章との共通点かもしれない。
 この場合の共通点とは、まさか僕とミシマが似ているということではない(そこまで僕もおこが ましくはない)。僕の書くものがミシマを想起させる作用を持つのかもしれない。書いている僕は なにしろミシマを読んでいないのだから、よくわからないのだけど。

 いずれにせよ。
 薦める理由を明確にされたこともない(できないから)ので、

「どうして僕はいつもミシマを薦められなければいけないのか」

と思ってきた。だって、10歳くらい年下の元教え子にも薦められたりするのだ。理由がわからず困 惑した期間は、まあ10年くらいかなあ。


 僕にとって初めてのミシマが『仮面の告白』である。
 三島由紀夫にとって初の長編小説であり、『金閣寺』などと並んで代表作に数えられるメジャー な作品だ。個人的には、たまたま友人がこの本を持っていて借りることができたというだけの事情 である。それでも、

借りてから読みだすまでに半年以上かかった

というのに、自分でも驚く。ミシマは読め読めと言われてきた作家なのに、どこかで僕は避けてい たのだ。

 本書の感想は、逆説的に、このエッセイではどうでも良い。
 日記にも書いたように、僕が誰かに伝える価値があると認める感想を持てなかったからだ。ミシ マのせいでも僕のせいでもない。このエッセイの題目は、自分との関連性を見つけられたかの1点 に絞れば良い。


>ロマネスクな性格というものには、精神の作用に対する微妙な不信がはびこっていて、それが往 々夢想という一種の不倫な行為へみちびくのである。夢想は、人の考えているように精神の作用で あるのではない。それはむしろ精神からの逃避である。


 なんだろうこの文体は。
 この引用箇所に限らず、本書を通じて感じ続けたことである。非情なまでのキレがある。ギリギ リと締めあげられた筋肉を連想させる。言葉をどこまで絞って、どこまで多くを伝えられるか考え 抜いた文章に見える。

 戦後直後の作品(昭和24年発行)である。
 もっと言葉が古いんじゃないかと僕は予想していたけれど、そんなことはなかった。現代の読者 からすれば一読ではわかりにくいという欠点はあるだろう。ここでこのエッセイは唐突に終わる。 この小説がそうであったように。


「みちびく」の客体は何なのだろう?
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