各ページのご案内はコチラ
Copyright (c) 2004
takeshi nobuhara All Rights Reserved.
|
|
「ねじまき鳥クロニクル」
僕と妻の暮らしには何の不自由もなかった。しかしそれは謎の女からの電話が来るまでのことだった。妻のクミコは謎の失踪をする。羊をめぐる冒険と違って、独りで僕はクミコを取り戻す冒険に出ることになる。それは血のつながりと、世界のどこかとのつながりを宿命として背負った旅だった。執筆に3年以上かけた長編中で最長の物語。
最大の瑕疵は、第1・2部と第3部の乖離だろう。
第1・2部は94年の4月にセットで発売され、第3部は95年の8月に発売された。春樹自身ものちになって、自作を語る文章でこの乖離を認めている。僕は図書館でその文章を読んだので正確な引用ではないが、
>第2部まででは物語が収束しておらず、どうしても書き足す必要があった
といった趣旨だった。僕にとってはありがたいことだった。第3部があってこそ完結した、と感じている。
ずいぶん昔、こう言われたことがある。
>あなた(僕のことだ)という人間ができあがったのは、間違いなく「ねじまき鳥」のせいですね。
もちろん全人格ということではなくて、僕の1部(例としての僕の文章)が多大な影響を受けているという意味なのだろう。彼は僕が大学生だったときに知己を得た人で、そう言われたのは僕が30歳を過ぎたころだったと思う。
整理する。
第1・2部が出たとき、僕は23歳(大学4年生の春)だ。第3部で24歳(社会人1年目の夏)。彼がいつ「ねじまき鳥」を読んだのか知らないし、彼が僕にそう言ったのが正確にいつのことなのか覚えていない。でも、言われた時に
そうか、たしかに僕の人格形成の大きな1部になりえたのかもしれないな
とは感じた。第3部を読み始めたとき、僕はこれから得ようとする自由と不自由について考えていた。
ストーリーは、たいへんややこしい。
春樹のここまでの小説では語られることがなかった「血脈」の問題が大きく扱われている(この作品までは、子どもや親が一切登場してこなかった)。しかしだからと言って、主人公とダイレクトに血がつながる登場人物はいない。おじと、水子となってしまった胎児のみだ。一方で、妻のクミコの方では、兄の綿谷ノボルしか出てこない。
もし物語を単純化すれば、もしそれに意味があるとすれば(たぶん意味はない)。
血脈を殺す物語だと思う。あざのある獣医=主人公が、皮剥ぎボリス=ナツメグの夫の殺害者=綿谷ノボルを象徴的に殺す。そのために、間宮中尉とシナモン(ナツメグの息子)とクミコの力を借りる。主人公は前者の「3人」を殺すために、
後者の「3人」から多くのものを奪う
ことになった。間宮中尉は左腕を、シナモンは言葉を、クミコは夫(主人公)を失うしかなかった。
まあ、この手の謎解きというか解釈は、いろいろあるだろう。
読者がそれぞれに考えれば良いし、とうぜん正解もないだろう。だから僕はここで、シナモンについて書く。僕がいちばん影響を受けたのはシナモンという人格の造形だと思うから。
ナツメグの1人息子。
幼少時に見た夢(のようなもの)の影響で、話し言葉を失う。ただし話を聞くことはできる。意思疎通には、手話に似ているが同じではない指の動きと、机をたたく音を利用する。端麗な容姿を持ち、母親譲りと思われる圧倒的な衣服のセンスを持つ。趣味は車いじりとコンピューター。病的なほどに几帳面で、あるべき事物をあるべきままに保つことを信条にしている。時間にも正確。第3部から登場し、主人公に「ねじまき鳥クロニクル♯1〜17」という文章を残して物語から消える。
こうやって要約してみると、ため息が出てしまう。
もちろん、僕の文章技術からして春樹の人物造形をうまくまとめられないもどかしさはある。それは仕方がないこととして、残念に思うのは以下の理由からだ。
僕はシナモンになりたいと思って生きてきたのだな。
そして、なれていないし、なれないだろう自分に失望している。小説の登場人物になりたいだなんて、まるで子どものような感想文ではあるにしても。
もともとそうだったのか、本書を読んでそうなったのかは不明だ。
僕にはシナモンと重なる部分と、まったく異なる部分がある。夢の価値を重視する。現実生活では無口だし(ついでに手話まで勉強したこともある)、人の話は聞くものであって答えるものではないと考えている。端麗な容姿には恵まれなかったにしても、センスは怪しいが衣服に関してはわりにうるさい。車とコンピューターにはまったく興味がない。几帳面さではとてもかなわないが、明確に同じ傾向を持つ。
そして何より、最大の興味は「ねじまき鳥クロニクル♯1〜17」という文章群である。
小説の中に小説が入る、いわゆるメタ小説である。コンピューターのスクリーンに示された「#1〜16」から主人公は「♯8(あるいは二度目の要領の悪い虐殺)」を読む。しかしそれを読み終えると、
♯8以外の文章は読めない
ように設定されている。1から16までクロノロジカルに展開されているのか、実は時間の順番はつけられていないのか、ひょっとすると全てが同じ物語の別バージョンなのか、主人公には知らされない。主人公は想像する。
>母親から繰り返し聞かされたひとつの物語を足掛かりにして、シナモンはそこから更に物語を派生させ、謎に包まれた祖父の姿を新たな設定の中に再創造しようとした。そして物語の基本的なスタイルを、彼は母親の物語からそのまま受け継いでいた。それは事実は真実ではないかもしれないし、真実は事実ではないかもしれないということだ。おそらく物語のどの部分が事実でどの部分が事実ではないということは、シナモンにとってはそれほど重要な問題ではなかったはずだ。彼にとって重要なことは、彼の祖父がそこで何をしたかではなくて、何をしたはずかなのだ。そして彼がその話を有効に物語るとき、彼は同時にそれを知ることになる。
(ゴシック部分は本文では傍点)
♯17は、この小説の最後から2章目に出てくる。
クミコが兄の綿谷ノボルを殺しにいく直前のメッセージだ。書き手がクミコなのか、シナモンなのか、他の誰かなのか、その記述が事実であるのか真実であるのか、いっさい説明されない。シナモンは第3部の中盤まで登場するが、その後はいっさい姿を見せない。
シナモンは誰だったのだろう?
僕はその謎を解明しないままに読み終えた。
これからやってくるであろう、僕が持つ自由と不自由について考える。シナモンは自由なのか、不自由なのか?
|
|