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劇画化というジャンルもある。
劇画は読書に入るのか、という向きもあるだろうが、後述する「親本」があまりに懐かしいので本シリーズで取り上げることにした。
『田山幸憲パチプロ日記』伊賀和洋
本書は東大中退のパチプロとして知られる田山幸憲のエッセイを劇画化したもの。
全4冊で、平成初期に連載されていた『パチプロ日記』(以下『日記』)を親本として構成されている。『日記』は「パチンコ必勝ガイド」という雑誌に連載されていた。僕が読んでいたのは
平成2〜5年ごろ
で、ちょうど僕が大学生だったときである。高校生のころからパチンコに親しんできた僕は、「パチンコが題材で日記を書けるものなのか」と感動して読んだ。
感想文は4冊ごとにわける。
「1 東大中退編」
田山氏には、『日記』とはべつに『パチプロ日記Before』という著作があるらしい。
上記の『日記』が始まる前、彼がどういうイキサツでパチプロになったかが描かれている。1946年の生まれの彼は1年間の浪人生活ののちに東大に入学している。
>東大なんて合格した時点で何も価値の無い物だった
>目的に向かったら負けないという意地を証明したかっただけなのだ
その10月に初めてのパチンコを体験した田山氏は、1970年に東大を中退する。
本冊は彼がどういう事情でパチンコにのめりこみ、まともな世間と決別するかを描くもので、本格的なパチンコの話にはならない。事実上のプロデビューがこのころだった、ということになる。もっとも、この時点の田山氏は工務現場のバイトをこなしながらのセミプロ程度だった。
僕が面白く読んだのは、1970年前後のパチンコ事情。
手打ち・立ちっぱなしは当然として、玉を打ち出すために
玉を左手で1発ずつ込めるシステム
だったのは全く知らなかった(出玉は今でいう下皿から出たようだ)。僕が初めてパチンコ屋に入ったのは1970年代後半。
本書の後半では「百発皿」が登場する。
今でいう「上皿」である。これで玉を込める必要がなくなり、自動で玉を打てる(注:電動ハンドルではない、それはもっと後だ)。1分間に100発しか打てないから「百発皿」。
>パチンコ玉値上げを認めねえ代わりに自動式を認めたんだ
これだとプロ・アマの技術が均等になって娯楽性が高まるって言いやがって
今も昔も変わらない、業界の都合による変化である。玉の射出間隔によって出玉が変わる時代でもあった。
ここで少し驚くのは「1分間に100発」ということ。
比喩表現なのかもしれないが、後述の電動ハンドルでは1分に70発程度。当時のパチプロはそれよりも速く玉を打てたことになる。射出間隔の短さが必ずしも有利というわけではないにしても、技術で勝負するパチプロにとっては「戦術が1つ減らされた」ことになるのだろう。あまり実感はないけれど。
「2 FEVER登場編」
本冊は70年代中盤が舞台。
「1」が田山氏の内面を描くものなら、本冊はその仲間たち、様々なパチプロたちが描かれる。仕事人としてのパチプロが活躍した最後の時代かもしれない。いや、今でもパチプロは生き延びているそうだが。
電動(自動)ハンドルが登場する。
これは一斉に導入されたわけではなく、手打ちと電動が混在した時代が長く続いたようだ。僕の小学生のころの体験では(父親に連れられていった)、たしかに手打ちと電動が両方あった。幼い僕は手打ちのほうが好きだった。1個1個の玉の動きを見ることができたから。
しかし、電動ハンドルはパチプロたちにとって扱いが難しいものだった。
チューリップ時代のプロは、素人より速く打ち出すことでダブル(チューリップに同時に2発入れること)を得意とする人もいたからだ。
>打ち出しを機械任せにすることによってスピード化し
早く客数を消化すること
が狙いらしい。プロにとっては、やはり戦術が1つ減らされただけである。
感想文からそれる。
僕が真面目にパチンコを打ち出したのは高校1年生のときだ。1986年。すでに手打ちの機種はなくなっていた。当時は後述する「羽根モノ」全盛だった。電動ハンドルは
射出間隔を調整できないのが難しいな、
と思っていた。チャッカーに入れて、Vゾーンに向けて玉を弾くのが難しい。ほんの1秒ほどのタイムラグしかないから、ハンドルから手を離すわけにもいかない。
時代は流れて今。
電動ハンドルはあまり改善されていない。バネの具合など要因はいろいろあるようだが、
射出の強さがバラバラ
という台が多い。ストロークが安定しないと入賞数も安定しないから、たいへんに困る、また、玉突き(射出された玉が戻ってしまい、次の玉とぶつかること)が日常化してしまう機種もある。だからって今さら手打ちに戻ったら疲れてしまうが、玉突きの解消と安定した射出を望みたい。
感想文に戻る。
本冊の後半、昭和55年(1980年)にFEVER機が登場する。三共社の「フィーバー」という機種である。フィーバーって、固有名詞だったんだねえ、知らなかった。ジャニーズ事務所が、その昔「ジャニーズ」というグループを持っていたようなもんだろうか(ちょっと違うかな)。
フィーバー機とは。 入賞すると抽選が行われ、ルーレットの数字が3つ揃うと大当たり。一気に玉が出る。そう、現在の「パチンコ」のことである。奇しくも登場人物の1人がそれを予言している。
>ひょっとしたらいつか「パチンコ」は「フィーバー」っていう意味になっちゃうかもしれないね
パチンコの質は変わり始める。いくら釘が良くても、大当たりを引けなければ勝てない。逆に、釘が悪くてもヒキが強ければ勝てる。田山氏が座右の銘のようにする「出るための根拠」がどんどん希薄になっていく。そうなんだよね、
今のパチンコっていくら回しても当たらないんだもの
という僕の嘆きにも重ねってきて面白かった。
「3 池袋編」
時代はジャンプして平成2年から始まる。
すでにパチプロとして田山氏はキャリア20余年を誇るが、常勝というわけではない。僕が『日記』を読んでいたころの内容で、元の文章から劇画にするために作られたストーリーやシーンもあるかと思う。本シリーズでもっとも面白い。
僕が『日記』を読んでいたのは高校生から大学生になる5年間ほどのこと。
記憶は定かではないけれど、面白かったのは収支決算である。1か月に1回の連載で、日記は1週間か10日ぶんになる。使ったお金と出玉と
・1日あたりの収支
・1週間(仮)ぶんの収支
が明記される。おおむね7日間でマイナスの日が1日、大勝ちした日でもプラス2万程度、トータルすると1日6〜7千円のプラスということが多かった。
それほど勝っているわけでもないのだな。
月収にすればせいぜい25万だろう。大学生のときの僕は1年に50万以上は軽く負けていたから、もちろん凄いと言えばスゴイのだけど、プロでもこの程度なのか、とドキドキしながら読んだ。本冊にもその様子が詳しく描かれている。
詳細も面白い。
今日は何番台がアキ(=前日よりも釘が良いこと)になり、いくら使って何発出す。スランプが見えたところで引いて他の台へ。どうにも良い台がなくなって、やむをえず一発台へ。運よく当たりを引いて何とか5,000円のプラスで終われた、といったような
パチンカーがもがき苦しむ様子
が丁寧に記されていた。文章がシンプルなこともあり、一気に読めたし、その雑誌(パチンコ必勝ガイド)を買ったら最初に読んだ。圧倒的な面白さだった。
本冊では、田山氏が自分の精神的な弱さに悩まされる描写が頻出する。
粘りのパチンコでプラスを確保するのではなく、我慢できなくなって一発台(大当たり1回で打ち止めになる機種)に向かい、幸運な一撃でその日の帳尻を合わせる。もちろん合わせられないこともある。氏の独白。
>一発台病に取りつかれて苦しいパチンコができなくなってるんだ……
苦しみ粘り強く事を成し遂げる精神を失うとしたら人間として一大危機
「パチンコをやっている時と実生活は別だ」と言うけど果たしてそうだろうか……
僕もまったく同じように感じる。
パチンコはパチンコだから、といわば精神の別枠に追いやってモノゴトを処理していいのか、とよく思う。自分の(いいかげんな)生き方がこの打ち方に反映されているのではないと悩む。パチンコを本当に好きになったことのある人には、よくわかる話だろう。
「4 溝の口編」
これが最終巻で、20年以上を過ごした池袋から溝の口への「ネグラ替え」が描かれる。
田山氏はいわゆるジグマ、同じ店だけで勝負するパチプロであった。出る台を探して様々な店を彷徨するのではなく、「出す台」を見つけて確実に勝ちを拾っていくタイプのパチプロだ。だが後述する事情で、氏はネグラ替えをするよりなくなった。
田山氏は大学時代に父親をなくしている(「1」にエピソードあり)。
池袋のS店まで徒歩20分くらいのところに暮らしていたようだ。要町の近くらしい。彼の私生活はパチ後の呑んだくれ姿しか描かれてこなったが、本冊の中盤で、とつぜん家が出てくる。そこには彼の母親がいる。え?
田山氏は実家に暮らしていたのでした(ーー;)
なーんだ。これにはかなりガッカリ。1か月に25万くらいの稼ぎで生計が成り立つんかいな、と思っていた大学生の僕の気持ちは裏切られた。言っては失礼だが、
実家で母ちゃんにメシ食わせてもらってパンツ洗ってもらう
なら、誰でもパチプロになれるじゃないか(いや、誰でもはムリだな)。
本冊の面白さは、田山氏がよく負けること。
原稿料という副収入はあるにしても、残りの持ち金が15,000円+銀行の27,000円なんていう記述も出てくる。他の収入は原稿料程度。
>パチンコはトントンだけど
呑んだり競輪いったりして
金使うから
目減りしてくさ
>いくら「明日なき我が身」を保たせてきた歴史があろうと……こうなるとさすがに寒いモノが背中を走る……まさに信じがたき破滅的生き方
上記のように月収25万円がキープされるとしても、かつ実家に住んでいたとしても、やっていけるはずがない。
そしてついに。
母親と暮らす田山氏は、祖父から引き継いだ自宅を手放すことになる。生活費をねん出するためだ。悲惨な話だが、当の田山氏が認めるように
>自分がいいかげんな暮らしをしていた
からである。自宅を売った金で用賀にマンションを借りて暮らすようになる。田山氏はしばらく池袋まで「通勤」を続けるが、意を決してネグラ替えを実行する。
しかしこれがなかなかうまくいかない。
理由は2つある。1つは羽根モノの少なさ。この平成5年ごろは羽根モノが減ってフィーバー機(上述した今のパチンコのこと)が多くなり、技術で勝負する田山氏にとっては羽根モノが少ない店では戦いにくい。
もう1つは換金の問題。
池袋のS店では1玉2円50銭だったのに、ニコタマ付近では2円30銭が相場。打ち止め個数は3,000発。しかも再挑戦(=玉を買い直して打ち止めた台をもう1度打つこと)も許されない。打ち止めして1万円だったものが7,000円になるのでは厳しい。
本書は平成6年(1994年)1月17日の様子で終わる。
僕が大学を卒業する寸前のことだ。ちょうど「4」に頻出した記述の通り、羽根モノは廃れていって、その数年後にはフィーバー機ばかりになり、1997年ごろから2003年あたりまでパチンコ屋からは遠ざかっていた。独り暮らしを始めたのが1996年で、2002年ごろまで仕事で忙しかったのだ。
原作の『日記』がいつまで続いたのか僕は知らない。
田山氏は2001年の7月に舌ガンで死去。僕が大学生だったころ、パチンコで生きている人々がいたのだな、と懐かしく読んだ。
ターさん、ありがとう。
僕はまだ、アマチュアらしく甘い打ち方で負け続けていくよ。だって、僕はまだ生きているから。
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