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『職業としての小説家』
2015年発売のエッセイ集。
こういう本を書くとは思わなかったというのが、僕の感想だ。
今まで自作に関して語るのも1部の全集のおまけにあったくらいで、エッセイは数多く書いているにせよ、小説を書く自分を描くことはなかった。キャリアもキャリアだし、60代も半ばになって
そろそろ自分のことを書きとめておいてもいいか
と感じ始めたのかな、と思った。
>しかしリングに上がるのは簡単でも、そこに長く留まり続けるのは簡単ではありません。小説家はもちろんそのことをよく承知しています、小説をひとつふたつ書くのは、それほどむずかしくはない。しかし小説を長く書き続けること、小説を書いて生活していくこと、小説家として生き残っていくこと、これは至難の業です。普通の人間にはまずできないことだ、と言ってしまっていいかもしれません。
僕が春樹の小説をはじめて読んだのは中学生のときだ。
以下は正確な記録ではなく記憶だ。高校受験用の問題集に『風』が出てきた。自腹を切って文庫を買ったのが高校2年生で、ハードカバーを買ったのは高校3年生の11月(『ダンス・ダンス・ダンス』だ。受験直前だったのでよく覚えている)。まだそのころは自覚しなかったけれど、90年代半ばの『ねじまき鳥』を読んでいるころ、
同時代に生きる作家を追っていくことになるのかな
と思った。春樹は僕より21歳年上だから、追いかけていくにはちょうど良い、といった気持ちだった。ただ、時がたつに連れて、たぶん21世紀にうつってしばらくしたころだけど、
彼はいつまで小説を書き続けることができるのだろう
と思った。「普通の人間にはまずできないこと」ではあるけれど、春樹だっていつかは(あるいはすでに)老いていく。僕が老いていくのと同じように、かつそれよりも早いタイミングで。
>ときどき世間の人はどうしてこんなに芥川賞のことばかり気にするんだろうと不思議に思うことがあります。しばらく前のことなんですが、書店に行ったら『村上春樹はなぜ芥川賞をとれなかったのか』みたいなタイトルの本が平積みになっていました。(中略)でもそういう本が出版されること自体、「なんか不思議なものだな」と首を傾げないわけにはいきません。
芥川賞を取れなかった問題について、春樹がこれほど明確に語ったのは初めてだ。
文壇に対する激しい(と言っていいと思う)批判も出てきて、
おいおいハルキ、お前がそんなに熱くなるなんて珍しいじゃないか
と感じた。まあこの際だからキッチリ書いてしまうかと思ったのかもしれない。大昔の短編に『とんがり焼きの盛衰』という作品がある。最初は「なんだこの話は?」と思うのだけど、読み進めていくと「なんだ、芥川賞と文壇のことを書いているんだ」とわかる仕掛けだ。
>そしてどういう小説を自分が書きたいか、その概略は最初からかなりはっきりしていました。「今はまだうまく書けないけれど、先になって実力がついてきたら、本当はこういう小説が書きたいんだ」という、あるべき姿が頭の中にありました。(ゴシック部分は本文傍点)
上述のように、僕は彼の小説を30年ほど読んできている。
初期3部作には間に合わなかったけれど(3部作の続きが『ダンス』)、同じ時間軸を生きてきたと感じている。書く方がはるかに大変だけど、僕のような読者だって
その作家の成長が作品ごとに見られなければ
つきあいきれない。僕が春樹の場合と同様に読んできた小説家は4人いる(2人は5年ほど、残り1人は10年ほど、もう1人は継続中)が、春樹ほど成長を見せている小説家はいない。『羊をめぐる冒険』にこういう箇所があった。
>しかし正直に話すことと真実を話すこととはまた別の問題だ。正直さと真実との関係は船のへさきと船尾の関係に似ている。まず最初に正直さが現われ、最後には真実が現れる。その時間的な差異は船の規模に正比例する。巨大な事物の真実は現れにくい。我々が生涯を終えた後になってやっと現れるということもある。(ゴシック部分は本文傍点)
この船が作家本人のことであると気がついたのは、読んでから10年後くらいのことだったけど。
本書は話し言葉の形式を取っている。
章立ては第一回から第十二回で、第六回までが雑誌に連載されたもの。その最後にあたる第五回と第六回では「書く」という行為そのものにスポットライトが当たっている。
>つまり大事なのは、書き直すという行為そのものなのです。作家が「ここをもっとうまく書き直してやろう」と決意して机の前に腰を据え、文章に手を入れる、そういう姿勢そのものが何より重要な意味を持ちます。(ゴシック部分は本文傍点)
うーんそうか、やっぱりそうなんだ。
僕は作家じゃないけれど、もうかれこれ12年にわたって日記を書いてきた。まだまだ自分なりに納得できないことが多くても、文章は書くことより書き直すことに意義があるんじゃないか、とこの5年くらいは思うようになった。日記は最初に書くときよりも書き直している時間のほうがずっと長い。まあそれは本書の感想文とは別として。
しかし同じように僕自身に話を引き落とす感想文を続ける。
第七回は「どこまでも個人的でフィジカルな営み」。春樹が健康を維持するために日常的に運動をしている事実は有名だし、マラソンのみに焦点をあてた『走ることについて語るときに僕の語ること』というエッセイもあるほどだ。
>長い歳月にわたって創作活動を続けるには(中略)、継続的な作業を可能にするだけの持続力がどうしても必要になってきます。それでは持続力をつけるためにはどうすればいいのか?
>それに対する僕の答えはただひとつ、(中略)基礎体力を身につけること。逞しくしぶといフィジカルな力を獲得すること。自分の身体を味方につけること。
>(前略)つまりあなたが(残念ながら)希有な天才なんかではなく、自分の手持ちの(多かれ少なかれ限定された)才能を、時間をかけて少しでも高めていきたい、力強いものにしていきたいなら、僕のセオリーはそれなりの有効性を発揮するのではないかと思います。意思をできるだけ強固なものにしておくこと、そして同時にまた、その意志の本拠地である身体もできるだけ健康に、できるだけ頑丈に、できるだけ支障のない状態に整備し、保っておくこと――それはとりもなおさず、あなたの生き方そのもののクオリティーを総合的に、バランス良く上に押し上げていくことにも繋がってきます。
僕が水泳を始めたのは30歳になる直前だっだ。
その数年前にも走ろうとしたことはあったのだけど、あまりランニング環境に恵まれず(言い訳)、5月くらいになったら蒸し暑すぎて(本音)やめてしまった。以下はどこかにも書いた。ひどい腰痛になって、医者に行ったら腰痛の治療とは関係なく貧血を起こしてしまい、
「あんた、そんな生活続けてたら、40になったら歩けなくなるよ」
と脅された(患者を「あんた」と呼んだ医者は我が人生でこの人だけである)。やってやろうじゃないか。
すでに『ねじまき鳥』が完結して数年過ぎていた。
90年代の春樹はエッセイの数が多く、繰り返し「運動することで職業作家としてやっていけている」といった趣旨のことが語られていた。僕もやっと
予備校講師の「駆け出し」から「若手」になったあたり
のころで、続けるためには体を鍛えなきゃダメなんだと決心し、無事にプールだけは15年も続けている。「意志の本拠地である身体」という考え方も好きだ。
長い感想文になった。
最後に、本書を未読の人に薦める基準を書く。ずばり、「あとがき」を最初に読んでしまうこと。ネタバレはないけれど、本書が
何をどういう風に伝えようとしたものなのか
がハッキリ書かれている。「まとめ」ではなく、実はイントロダクションなんだと僕は感じた(本書には「はじめに」がない、不思議だ)。引用で終える。
>でもたまたま小説を書くために資質を少しばかり持ち合わせていて、幸運みたいなものにも恵まれ、またいくぶん頑固な(よく言えば一貫した)性格にも助けられ、三十五年あまりこうして職業的小説家として小説を書き続けている。そしてその事実はいまだに僕自身を驚かせている。(中略)僕がこの本で語りたかったのは、要するにその驚きについてであり、その驚きをできるだけピュアなままに保ちたいという強い思い(たぶん意志と呼んでもいいだろう)についてである。
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