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『猫を棄てる 父親について語るとき』
逝去した父親の思い出を語るエッセイ。
面白いところ。
父親が語った彼の人生が、現実と矛盾している。著者も父親本人から聞いたわけではなく、また同時に自分の記憶違いかもとしているが、
そこにあった人生とそこにあったはずの人生に齟齬
が生まれている(漢字はソゴ;行き違い)。しょうがないけどね。
僕も自分の父に対して、同じような経験をしている。
父は九州で生まれ、少年時代を朝鮮半島のどこかでおくり(僕の祖父はけっこうぼろもうけしたらしい)、敗戦で広島県の小さな島に戻ってきた(祖父は一気に貧乏になったらしい、ありがちだ)。その後、僕が生まれるまでの人生を断片的に聞かされているけれど、前後関係がアヤフヤな期間も多く、20年くらい前から
「メモでもいいから自分史を書いてくれよ、僕のルーツでもあるんだし、死んだら誰にも再生できないんだぞ」
と頼んでいる。今はもはや認知症なので、そのまま歴史は消えてしまうだろう。
感想文に戻る。
題材からして、どうしたって感傷的な文章になるし、それはこっちも覚悟して読んでいるのだが、語りが足りていない箇所が多い。たとえば、父親との思い出。
>一度ハイキングがてら、滋賀の石山寺の山内にある、芭蕉がしばらく滞在していたと言われる山中の古い庵を借りて、句会を催したことがあった。どうしてかはわからないが、その昼下がりの情景を今でもくっきりとよく覚えている。
部分を抜き出して批判するのは良くないが。
この引用文はここで改行され、この話題は続かない。僕が不満に思ったのは「なんでよく覚えていたの?」と「どういう情景だったの?」の2点だ。小説だったらこのままでもいいとして(そこを埋めるのは読み手の仕事だ)、
エッセイなんだからどっちかを説明する義務があるだろ
と感じた。「なぜか」と「なにが」が語られないのでは、読み手には何もわからないじゃないか。春樹はむかし、まあ20年以上前には、このあたりをしっかり書いていたのに。たいへん不服だ。
最大の問題は、本書が小説に似た構造を持っていること。
冒頭と末尾に出てくる2匹の猫は、メタファーだろう。前者は、著者と父親が一緒に「大きくなった雄猫」を海岸に棄てる話。猫を置き去りにして2人が自転車で自宅に戻ったら、
2人よりも先に猫が自宅に戻っていた
というエピソード。時空を飛び越えてしまった猫は、父親のことだと僕は感じる。
いっぽう、後者の猫は失踪する。
こちらは「白い小さな子猫」だ。ある日、子猫は庭の松の木に登っていったはいいが、降りられなくなった。助けるすべはなく、
翌朝には子猫の鳴き声も子猫も消えていた
という話。これは『ねじまき鳥クロニクル』にも出てくるエピソード。子猫は著者のことだろう。
そんな僕の邪知はいいとして、困るのはここからだ。
子猫のエピソードの直後、自分に残された「ひとつの生々しい教訓」だ。
>より一般化するなら、こういうことになる――結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す。
僕がバカなのかもだが、かなりわかりにくい。
結果は父親の死のことだろうか、この文章における猫は春樹のことだろうか。親殺しは『海辺のカフカ』のテーマでもあり、僕は混乱した。
ペルソナの交換がどこかで行われたのか、と。
拍車をかけるように直後に続く。
>いずれにせよ、僕がこの個人的な文章においていちばん語りたかったのは、ただひとつのことでしかない。ただひとつの当たり前の事実だ。
この「事実」は引用しない。
それが本書の結論だから。話を戻す。この箇所で「語りたかった」と書くのだから、
これは小説ではないと著者が言った
と僕は受取った。「語りたかった」ことは語らないのが小説というものだ。
本書には「あとがき」がついている。
春樹は小説にあとがきをつけるのは好まないとしているが、1冊だけ例外がある。『ノルウェイの森』だ。
『ノルウェイ』はリアリズム小説だ。
虚構ではあれ、登場人物が「向こう側」に行ったりはしない。すると、本書には
エッセイのかたちを借りたリアリズム小説なのか?
という疑問が生まれる。まとめると、本書はエッセイなのか小説なのかよくわからないのだ。こんなんじゃ説明不足だろう。そういうわけで、
春樹のエッセイとしてはワースト
かと考える。もし順位をつけることに意味があれば、という話だけど。
追記:件名の通り、このシリーズは今回で10回目。今回初めて、一読しただけで書いてみた(過去9回はいずれも最低でも5回は読んでいる)。これからまた、読み返すたびに「ここに書いたことを訂正したい、あるいは上書きしたい」と思うだろうが、あえて一読のままアップする。時間を超えていくこと、時間と闘うことは『よびわる』開設時からの方針なので。
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