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2019年から、再読を増やしている。
いつかの日記に書いたように、所蔵本が多すぎるからだ。90%以上は文庫本であるにしても、
1,000冊では利かない
くらいある。僕の人生が残り20年だとしても、1年に50冊も読まなければ所蔵する意味がない。
読み切って、捨てて、自分の中に残して死にたい。
だから再読を進めている。
それだけの価値がある本を残しておいたつもりではあれ、実際には半分くらいが「再読すればもういらないな」と思うものが多い。しかしもちろん――本好きとしては当然と思いたいのだが――残したまま死んでしまおう、と思う本もある。その中で、今回はあえて
まったく読まなくなった椎名誠の小説
について書く。書くことで、せめて離れることができると考えている。
『哀愁の町に霧が降るのだ 上・中・下』
昭和50年代のエッセイ風私小説。
たいへん面白かった。
たぶん30年ぶりくらいの再読だ。
僕が生まれて初めて買った本たちの1(3)冊で、上巻は1981年発行、下巻は82年で初版だ。と書いてみると、
僕が小学生だったときの話
だから、実際は親にお金を出してもらったに違いない。それでも「この本が欲しい、読みたい」と思って買ってもらったのは事実のはず。明確な記憶はないけれど。
このころのシーナはパワーがあった。
ストーリーは16歳から22歳あたりまでの青春の日々を書いたものだが、時空は
執筆現在の1980年代(シーナは37歳くらい)と1960年代を行ったりきたり
する。やや余計な箇所はあるものの、共通する登場人物が出てくるし話も関連している。かなり異常な構造であれ、シーナが力づくで書いた私小説だ(注:シーナの著作歴ではエッセイにカテゴライズされている)。
それにしても、無茶苦茶である。
1冊は10章から成り立ち、上巻の出だしはこうなっている。
1 話はなかなか始まらない
2 まだ話は始まらない
3 緊急対策中途解説の項
えんえんと「書きおろしを依頼されたが書けない。どうすりゃいいんだ?」というエッセイが続き、全体の3割を使ってからやっと本来のストーリーが始まる。あげくに、最初は1冊で完成するはずだったのに
書いているうちに3巻セットに変更されてしまう
といった無計画の極み。あとがきから。
>おかしな本を書きはじめてしまい、しかもそれは一冊のつもりが二冊になり、さらに三冊になり、書き出してから最後の三十章までくるのに一年以上もかかってしまいました。たいして中身もないくせに時間だけは巨匠なみ、というていたらくで(中略)。
それからまた三冊目の下巻で新たな中小企業の人々のことを書いているうちにこの世界のことをもっともっと書いていきたいと思うようになりました。したがってはっきりいうと、この話は本当にあともう一冊(下の下巻)というのが出てきちんと完結することに(以下略)。
このあとに出たのが『新橋烏森口青春篇』や『銀座のカラス』で、本書の続編になっている。それらも読んだけれどもう手元にない。
『黄金時代』
10代から20代前半の、喧嘩に明け暮れる青少年を描いた小説。
やや粗削りではあれ、面白かった。
約20年ぶりの再読。
シーナの小説は20代に何度か買ったけれど、これが最後になったはず。面白くないからではなく、
僕が求めている世界はここにはない
と思ったからだ。僕はシーナを敬愛していたし今もしているが、この男の世界にこれ以上近付くこともない、と感じたから。すこし感想文を離れる。
僕はキッチリと人を殴ったことがない。
中学1年生のとき、1度だけそれらしいことをした。優等生だった僕(本当)は廊下でクラスメート全員のノートを運んでいた。そういう係だか当番だった。手を離せない僕に、Oという男がちょっかいを出してきた。具体的に肉体を使うわけではないが、
相手=僕が束縛された状態にある
から仕掛けてくるような、他愛もない茶化しである。
Oはスポーツが得意で勉強もそこそこデキたようだが、つまらない男だった。
僕はスポーツは苦手なものの勉強はけっこうデキたが、つまらない男ではなかった(たぶん)。お前のような浅はかな奴に、俺様を茶化す権利はない。僕はこの男を殴るしかない、と思った。
44人分のノートを投げ捨てた。
優等生が取るには、あまりにラディカルな行動だ。僕はそれを明確に知っていたものの、激高していた。この男を殴るしかない。
僕の行動を見て、Oは逃げた。
僕は追った。Oと僕は校庭に出た。僕は足が遅いほうだったが、わりに俊足だったOを捕まえた。前日まで雪が降っていたので、校庭はぬかるんでいた。よく晴れたお昼休みだから、数多くの視線が集まってくる。僕はその光景を鳥の視点から観つつ、この男を殴るしかないのだと改めて思った。
しかし、その瞬間にお昼休みが終わった。
それを告げるチャイムが鳴ったのだ。僕とOは教室に引き返した。中学生にとって、校則は絶対のルールだ。残念ながら、僕は
俺にはこの男を殴る技術がなかったのだ
と感じていた。自分から追いついた・追い詰めた有利さはあったにしても、人を殴るスキルそのものに欠けていた。感想文に戻る。
喧嘩をキッチリ書くのは難しいのだろう。
その仕事をやってくれたのがシーナである。書き出し。
>人を殴るというのは怖いけれど、怖いのは殴る直前までのことで、いったん拳を振り回し、それがよほど焦って狙いがはずれ、思わぬところに当ってしまったとしても、無為に空を切ってたたらを踏んだりしないかぎり、怖さの一瞬後には随分気持ちが軽くなってしまうものだ。
主人公の「おれ」は中学3年生のときはじめて人を殴る。
初戦に惨敗したあと、喧嘩をするための訓練をして、時に勝ち、時に負ける。シーナ自身もこういったストリートファイターだった。やくざまがいのセミプロにはかなわなかったそうで、どこかのエッセイで
>喧嘩はよくやったが4勝6敗くらいで強くはなかった
と書いている(要旨)。それはともかく「おれ」は喧嘩に明け暮れて青年になる。
最終章は、かつて負けた相手へのリベンジ。
痛快に勝つわけではなく、一応は勝ったけれどイヤな思いが残るという、本書で何度も語られる結果だ。喧嘩をしたことがない僕にも
勝っても負けてもツマラナサを覚えるんだよな
という感覚はよくわかる。喧嘩をするしかない自分の若さに覚える嫌悪だ。
しかし、本書の良さは、実は喧嘩ではない。
そういった、いわば荒んだ日々を送っている青少年が感じる
もっと普通の青春を過ごしたいのに過ごせない
という諦観が荒っぽく書かれている。「おれ」は銭湯に行く途中で、怪しいチンピラとすれ違う。場合によっては喧嘩になりかねないと危惧したけれど、そのチンピラは女と待ち合わせをしているだけだった。そして何もなかった。不意に身構えた自分がおかしく思えた。
>その先の道には街灯が等間隔でついていた。歩いていく先に自分の影が見える、背後からの光でその影はどんどん背を伸ばしていく。その影にむかって、おれは唾を吐いた。
だれか好きな女がいたらいいな、と思った。
最終ページでは「おれ」の思いが結実していく。いやはや、こんなカッコイイ青春文学って、そんなにないよ。だれか好きな女がいたらいいな。
ダメだ、僕はこの2冊を捨てられない。
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