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最近はこんな読書43 8月22日
 小説の構造って何だろう、と考えた感想文を2つ。
 書いたのは(たぶん)2009年ごろなので、今とは考えかたが異なる面もあるはず。でもまあ、

それはそのときの自分が考えたことだから

と思うことにして、原則的に当時のままでアップします。


 『謎とき 村上春樹』 石原千秋
 僕も一応は文学部の出身なので、文学研究の真似事(学部だからね、その程度)をしたことがある。
 その当時も思ったし今も思っていることは、

「小説の著者はそんなことまで考えてねーんじゃねえか?」

という疑念である。主人公の視界に赤いものがアレコレ飛び込んでくるとか(漱石の『それから』だっけ?)、真っ赤な太陽が空に浮かんでいればそれは神の恩寵を示す(ロレンスの『息子と恋人』だ)といったようなことだ。一般的に言えば、

「そんなの、コジツケじゃん?」

と言える文学解釈の手段である。

 この事実に対して、本書の著者は数箇所で読者に確認を取っている。
 1つの小説の中にある言葉には、その小説にとって全て必要な言葉であると。そう考えることが本書を成立させるよすがであると、了解を求めている。僕もこれには異論がない。「あとがき」にはこうある。

>最後に答えが出ない問いについて触れておこう。
 それは、村上春樹文学がこの本で書いたように読めたとして、それは村上春樹がこう書いていたからこう読めたのか、それとも僕がこう読んだ結果にすぎないのかという問いだ。

さあどうなんだろう、誰にもわからない。


 扱われているのは、村上春樹の初期の長編5本である。
 どれも小説の中に隠されている「物語」を見つけだすことがテーマになっている。5本ともなるほどと思ったが、とりわけ良かったのは以下の2本だ。その一部を取り出して要約する。

・『ノルウェイの森』は『こころ』の本歌取り

 げ、やっぱり。
 まだ公開は先になるけれど、僕も『こころ』についてのエッセイを書き上げてある。『こころ』を論じるのに、春樹の小説を引き合いにしている。小説は異なれど、漱石と春樹が提示しようとしているのは同じ「物語」ではないかという趣旨のエッセイだ。著者のような専門家と僕なんぞが同じように考えていたというのは、ちょっとどうかなと感じるにしても。

・『羊をめぐる冒険』は名前を探す物語

 そうだ、この小説には固有名詞がほとんど出てこないのに、名前という概念に強いこだわりが見受けられる。
 僕が『羊』を熱心に読んだのは18歳のときだ。とうぜんのことながら「自分の名前は何なのか」、つまり「自分とはつまり何者なのか」を考え、悩んでいたはずだ。自分の名前を探すという行為の手助けとして、名前を探す物語を食い入るように読んでいた可能性は高い。


 小説を論じる本を読むことには是非を問う声がある。
 そんなものを読まなくても小説は楽しめるという意見があり、逆に読むことで深まっていく感想もあるという主張もあるわけだ。僕としては、ある程度の節度と冷ややかな目を持って、

つまり「メタ自分」というものを設定した上で

こういう本を読むのも良いんじゃないかという立場を取りたい。良書。



 『私という運命について』 白石一文

 29歳から40歳までの人生を生きる女性を主人公とする長篇小説。
 この著者の長所も短所もよく出た好著。

 ちょうど小説家として過渡期にあるのだろうか、鼻につく部分が目だってきた。

 デビュー作の『一瞬の光』からそうだったとも言えるが、特に本書で気になったのは「情報の後だし」という手段が多すぎること。何かの事実をさらっと示して、読者に

「え、それ、どういう事情?」

と思わせてから、これこれこういうわけでと後付け解説が始まる手段だ。

 小説に限らず、読み手に情報を渡すのは難しい。
 読者はその情報を知らないから、文章のどこかで示さなければいけないけれど、先に示すと説明的になりすぎて興趣が削がれる。だからといって情報説明を後ろに回しすぎると、今度は読者が

「なんのこといってんのかワカンネ」

となってしまう。本書には「情報の後だし」という手法でストーリーの勢いを殺さないように、という意図があるようだが、

ワンパターンで飽きる

という感想になってしまった。原稿用紙900枚ぶんというかなりの長篇で、物語上は11年も時間が流れるから、説明をどう入れるかが非常に大事であることは間違いないのだけど、もう少しなんとかならなかったの、という思いが残る。


 また一方で、これもデビュー作から変わらない長所は、著者の人生観を強引に登場人物に喋らせる(または独白させる)こと。
 その内容があまりにも独善的だとか、エリート男性の発想だという批判はあると思う(この件に関しては本書の解説にも言及がある)。いわゆる「文学」の発想からすれば、

書きたいことをそのまま書いてどうするのか

という声もあるだろう。それを別の方法で表現するのが文学じゃないのか? という古典的議論である。これはこれでいいんじゃないの、と僕は考える。たとえば。

>最近、きみは物事を難しく考えないようにしているのだとか。僕も病気になってからはできるだけそうするように心がけています。自分の未来がどうなるか見当もつかないのは当然にしろ、自分の過去さえはっきりと記憶していない。人間というのは現在しか見えないつくづく寂しい生き物なのだと思います。要するに、希望も絶望も人生には本来無用のものなのかもしれない。僕たちはただ、希望も絶望もないこの茫漠たる世界で、その日その日を生かされていくだけ――きっとそれが嘘偽りのない真実なのでしょう。

 どう思いますか。
 人は現在のためにだけ生かされている、というのには僕は賛成する。でも、過去をはっきり記憶しているから現在という意識も生まれてくるんじゃねーのか、という反論もある。かといって、この引用部分が正しいとか正しくないとか私は好きじゃないとか大賛成とか、そういうことを問題にしたいのではない。この書き手の良いところは、

読者と対峙することも辞さない強い信念表明

にあると思う。実は、エッセイや論文の手法を取り込んだ新しいタイプの小説ではないだろうか。好みは分かれるだろうし、それで良いはずだ。

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