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読書は単純に楽しむべきものである。
ウンチクも感動もいらない。読んでいるその瞬間に、その本の世界に引き込まれていくのが素敵だ。たまには、そんな基本に帰らなきゃいけない。
『帰りたくない!』 茶木則雄
書店の店長の日記形式エッセイである。
著者のことは何も知らずに手に取った。立ち読みしてみると、話題は本と小バクチと愚妻にいじめられる話ばかり。愚妻はともかく、僕が書く日記やエッセイの見本になるかなと買ってみた。
結論を先に書けば、笑いが止まらない。
土屋賢二(ヒマなひとはここのエッセイを参照)にも負けず劣らず、それでいて異常な読書家なのでゴイが豊富。家庭をないがしろにして小バクチに明け暮れ、妻からは虐待され、書店店長をやめてフリーライターになって・・・と無茶苦茶な生活にも笑いを覚える(共感は覚えない)。
4歳の息子に「これは栗キントンだ」と言って、自分が酒のツマミにしていた「辛しなす」を食べさせる。ボロボロと息子は涙を流す。妻はブチ切れ。
>「あんた、結婚する前から変わってると思ったけど、本当に変わってるわね。ま、虐待された子供は親になると同じことをするって言うけど」妻はいささか同情したような口調で言った。だからさあ、虐待なんかじゃないんだってば。これって父親と子供の連帯感を育てる愛情表現の一種なのっ。
「そこまで言うんだったら、彼に訊いてみましょうか。そんなことされて嬉しいかどうか」彼女は息子を呼び寄せると「あんた、ヘンなもの食べさせられて嬉しい?」息子は私の顔をちらっと覗き見た。私は精一杯微笑んで、取っておきの(つもりの)笑顔を作ってやった。なにせ晩酌がかかっているから、こちらも真剣である。
「ぼく・・・・・・もうこんな生活やだ」お、お前なあ。幼稚園児のくせに生活だとお。いったいどの口が言うんだどの口がっ。
この手の笑いはツボに入る人と入らない人がいるものだけど、もし前者に属する人は電車の中で読むのはやめておきましょう。
『九月の四分の一』 大崎善生
4本の短編小説が収められている。それらのタイトルは以下の通り。
「報われざるエリシオのために」
「ケンジントンに捧げる花束」
「悲しくて翼もなくて」
「九月の四分の一」
パッと見た瞬間、連作なのかなと思う。
カタカナが2つ続いて、4つの小説が「四分の一」で終わる。エリシオって何だろう? 1ヶ月を四分の一にするってどういうことだろう?
タイトルは多くのことを語る。というより、タイトルで読者は多くのことを想像する。
その想像があたっているかハズれているかを考えながら読む。もちろん、その小説を読み終えたときに謎が解明されるときもあれば、そんな謎を忘れてしまうこともある。
僕は最後の「四分の一」を謎解きの物語と受け取り、他の3つはタイトルのことを忘れて読んだ。
「僕」が主人公である、それぞれに独立した恋愛小説。強く推奨。
『モリログ・アカデミィ1』 森博嗣
最初の6割は単純な日記。後半の4割は「社会」「工作」のような小学校の科目に似せた分類。基本はエッセイ。
著者のことを何も知らないから、読み始めは苦労した。「スバル氏」が妻らしいと気がついたのも、「工作」が某大学工学部助教授としての趣味(?)と気がついたのも、「庭園鉄道」が彼の庭にあると気がついたのも、かなり読み進めてからのこと。
愛犬「パスカル」の写真がとても可愛い。
庭園鉄道が1周するのに5分かかる庭で遊んでいるのもいい。そんな広い庭で著者は終わることのない庭いじりと落ち葉拾いをひたすら続ける。終わらない秋。
著者が理系なのか文系なのか、読んでいてわからなくなってくる。
「センサ」や「モニタ」のように「ー」をつけない理由を語るかと思えば、人々の計算の仕方を責めたりもする。
>(みんなは)「そんな計算どおりに世の中いかないから」なんてわけのわからないことを言う。計算どおりにいかないのは、ちゃんと計算しないからだ。
たぶん、個人的に付き合ったらイヤな奴なんだろうなあと思う。
でも、だからこそかえって文章の鋭さと思考システムが光る。ちゃんと考えることのできる人がここにいる。僕は著者のことが好きになれないと思うけど、著者の文章が好きだ。彼は、きっと「そんなのは読者の責任であって、僕の関与することではない」とか書くんだろうな。
イヤな奴はいい文章を書くのだ。
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