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根暗と言われても構わない。
暗闇が見えないやつに、昼の光が本当に見えるのか。静かなノンフィクションと真っ暗なエッセイを紹介する。
『ドナウよ、静かに流れよ』 大崎善生
あなたは、つまりこのHPの読者は、このHPに書かれていることを「真実」
だと思うだろうか。それとも「事実」だと思うだろうか。
これは僕自身への自問でもある。僕はこのHPで真実を書いているのか、事実
を書いているのか?
先日の日記でも書いたように、僕がこのHPで書くのは僕という家の窓から見
える一部の光景である。
それが真実であるのか事実であるのか読者にはわからないし、筆者の僕にもわ
からない。おおげさに(そしてカッコつけて?)書くなら、それがアマチュアの
僕が文章を書く大切な意味の1つだ。いまここに存在する事象は、真実なのか事
実なのか?
『ドナウ』に話を戻す。
ノンフィクション(実際にあった話)である。
2001年、著者は新聞記事を目に
する。
>邦人男女、ドナウで心中
33歳指揮者と19歳女子大生 ウィーン
これだけの情報に小説家の著者は関心を持ち、長い取材を積み上げて本書を書
き上げる。何しろ故人2人の自殺背景を描くのだから、その事実の裏づけを取る
のもままならない。
指揮者は「自称」だったこと、女子大生はハーフだったこと、彼女の名前は日
美だったこと、自称指揮者は日美の母から「パラノイアだ」と罵られたこと。
取材から得られたかすかな事実から、大きな「物語」をつむぐ。そこにはきっ
と、著者が創作したストーリーもあるだろう。しかし記述はあくまで「事実」に
対して忠実である。また同時に「真実」を描かなければならない。ただ事実を積
み重ねるなら、小説家が書く意味はない。あの歴史小説の大家である司馬遼太郎
がそうしたように、その時空に存在した(存在していざるをえなかった)事実を
空想して。
巻末の川本三郎の解説から。
>「事実」は本当のところ誰にもわからない。「事件」ではなく「心の物語」を
描こうとすれば、「事実」を解き明かしてゆくことは不可能に近い。とすれば「
事実」の取材を丹念に積み重ねた果てに、かすかに自分なりの「真実」を見るし
かない。この作品が感動的なのは「事実」の先に「真実」の光が見えてくるから
である。
僕の感想は少し異なる(解説文とは感想文ではないから、当然といえば当然だ
が)。
大崎は「真実」を書ききろうとして、それを書ききれなかった。その無力感が文
章ににじみ出ていて、悲しい。
おかしな感想かもしれない。
小説はもちろん、ノンフィクションでも見事な作品を書いてきた大崎が、「ど
うしてもここが書ききれない」と苦しんでいるさまが見えるような気がする。言
い換えれば、そこがこの「作品」の瑕疵(かし=きずのこと)であり、魅力であ
る。
日美はドナウに何を流したんだろう?
『感情の法則』 北上次郎
記憶を大事にすること。
人生の年輪は記憶であるということ。
事実は裏切っても、記憶はそうではないということ。
本書には明るい未来への展望とか希望といったものは出てこない。ミステリや
翻訳小説の1部の記述(時には本筋に関係のない部分さえある)から過去の自分
へ想いを馳せ、「ああ昔は良かった、思い出だけが人生だ」とエンエンと書き綴
る。
>記憶などなくてもいい、大切なのは現在と未来だ、という言い方もできるけれ
ど、五十歳を過ぎるとひたすら過去を向いてしまうので、記憶がなによりも愛し
いものに思えてくるのだ。新しい友人はもういらないし、これまで経験したこと
がないようなめくるめく出来事も、もう必要ない。今までの友人だけで十分だし
、これまであったような出来事だけでいい。これ以上は何も求めない。過ぎ去っ
たこと、知り合った人々、ただそれだけが愛しいのである。
救いがないほど暗い。
人生五十年の時代ではないのだから何とかならないかと読者は心配になる。ま
だ若いじゃないかと言ってあげたくなる。しかしひるがえって考えると、こうい
う文章を読んで「なんだこれ?」と興味を持たないのではなく、大丈夫かと気に
なってページをめくってしまうというのは、読者の中にも同じ気持ちがあるから
なのか。
著者は26歳のころを振り返る。
好意を寄せていた女性にふられる。もう会わないことにしましょうと言われて
数ヶ月。彼女が通う専門学校がある代々木駅前に著者は所在なく立つようになる
。そこに立ったからといって彼女に会えるという保証はない。著者はそれを十分
に理解しながらも「何かが起きて欲しいと願っていた」。
>もう2度とあの日々に戻ることは不可能だが、だからこそ、何も起きないこと
に苛立っていた日々を愛しく思うのだろう。その種の苛立ちに無縁になると、今
度は途端に懐かしく思い出すのだから始末が悪いものだ。今や劇的なドラマを求
める気持ちはさすがにないが、何も起きないほうがいいとの感情と、それではつ
まらないから起きてもいいぞとの思いが交錯しながら、私は少しずつ老いていく
。
いつも後ろを向いている著者にも、少しは前を見ることがあるらしい。
しかし、その前を向く視線はあまりに弱く、長続きはしない。新しい経験より
も、古い記憶を守っていこう、せめてその記憶だけは消えないように、と祈って
いる。
>人が消えていくのは当たり前なのだ、残される者は死者を記憶するだけだ。そ
の記憶だけが真の哀悼なのである。
>だが今さら記憶は変更できないし、もともと私は事実などどうでもいいと思っ
ているのだ。
記憶を温めて生きていくこと。
せめて、記憶だけは自分を裏切ってほしくないこと。それが著者の「後ろ向き
」な希望なのかもしれない。
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