予備校講師でわるかったな!





各ページのご案内はコチラ 

proflile 自己紹介

diary 日記

essay エッセイ

bbs 掲示板
  

Copyright (c) 2004 
takeshi nobuhara All Rights Reserved. 

essay エッセイ
『あなたの呼吸が止まるまで』 9月26日
前記:件名の小説に関して、少々のネタばれがあります。


  このHP「よびわる」も4年目に入ったので、それなりの歴史が蓄積されてきた。
  ご存知の読者様も多いだろうけど、過去日記や過去エッセイのリンクを貼ることが多くなった。もちろんそのためには、僕が「この話題の前フリになることを書いたな」と覚えていなければならない。自分のPC上で全文検索してその過去日記なりエッセイなりを探し出し、もう1度読むことになる。

  自分が何を書いてきたのか、ある程度は覚えている。
  でも、本当にそこで書いたことを100%覚えていることはまずない。同じテーマで同じことを書こうとしても完全な再現はありえない。自分で自分が書いたものを読み直して「ああ、昔の俺はこういうことを書いたのか」と新鮮な感動を覚えることすらある。

  もちろん文章というのは程度の差こそあれ自己の投影である。
  その自己は過去のものであるかもしれないが、今の自分の中にも生きている。ただ、その過去の自分は今の自分の中に埋没し、姿を見せてくれない。文章という不器用な器に盛っておいたものを見て、過去の自分を推し量るばかりである。


  『あなたの呼吸が止まるまで』(島本理生)の感想文を書くのだった。
  開設当時のスタンスとは変わってきたことの1つに、読んだ本の紹介がある。エッセイでシリーズ化している『村上春樹その・・・』は別格として、開設当時は激しくインスパイアされた本を丸ごと1本のエッセイで扱っていた。その後、読む本の量が増えたこともあって『最近はこんな読書』シリーズがスタートして、2006年度からは読んだ本の全てを日記で扱うようになった。

  過去との変化を書くのだった。
  島本理生の『生まれる森』を読んだのは2004年の春、ちょうど「よびわる」がスタートしたころだ。僕が彼女の作品を読んだのはこの『森』が初めてで、そのあとで長篇(いずれも中編に近いが)を3冊、短編集を2冊読んだ。『森』よりも前に書かれたものもあれば、後で書かれたものもある。

  『森』に関するエッセイ(ヒマここ)で、僕はこう書いている。
  恥ずかしきかな、自己引用。

>これは完全に僕の責任だけど、どうしても春樹と比較してしまう。
   言うまでもなく春樹の巧みさや大きさに彼女が今の時点で敵うわけがない(日経新聞によれば、彼は日本人の次のノーベル賞作家の候補なんだそうな)。それでも、僕は彼女の作品の中に成長していく可能性を見たい。見たと断言できないけれど、しばらく注目してみよう。長い付き合いになればいいね。

  結果的に、3年と少しが過ぎた時点で「付き合い」は続いている。
  正直なところ、まだ小説家としての大物感はない。著者が若すぎる(1983年生まれ)ということもあるし、高校生のときから作家をやっているにしても活動期間が短いからだ。


  今度こそ『あなたの呼吸・・・』に話題を移そう。
  ここまできてやっと、恋愛を離れたテーマになった。代わりとなったのは恨みである。「あなたの呼吸が止まるまで」あなたのことを愛しているのではなく、主人公はあなたのことを恨み続ける。とんでもなく暗い話である。

  文体、あるいはヴォイスというべきか、その変化。
  主人公が高校生から20代前半の女性1人称であることがほとんどだったが、『あなたの呼吸・・・』は同じ1人称でも小学6年生が主人公。ですます口調で書かれているから、読み始めたときにはかなり違和感があった。その年齢がハッキリするまで時間がかかり、主人公の立ち位置がどこにあるのかつかみにいこともある。

  書き手は誰なのか。
  主人公が小学生らしい舌足らずな言葉で語っているが(「けいれん」のような難しい言葉に漢字は使われていない)、小説家自身はどこにいるのか。小説家となった著者が過去を回想するように書いているスタンスにも見えるが、それが明示されている箇所はない。著者が主人公に憑依(ひょうい=霊がのりうつること)しているのか。長篇で初めて「あとがき」がなかったのも、その効果を意図的に狙ったものだろう。


  さきに、テーマが「恨み」に代わったと書いた。
  正確には、今までは回復と再生を描いていたのに、この作品では失望と解体を描いている、と言うべきだろう。普通の言葉を使えば、読み終えても読者が救われない小説である。最後の描写。

>体を起こすと、すべてを黄金色に染めた太陽は、もうじき川の向こう岸へとたどりつくところでした。両目がかすんで濡れるのを無視してその中心を見つめていたとき、一羽の鳥がふたたび低く飛んできて、一度だけ水面をえぐるように沈み込むと、次の瞬間には、光に包まれて影も形もなくなっていきました。

  光のあるほうに飛んでいくのに、姿は見えなくなってしまう。
  この作品を書く前の著者なら「光のほうに飛んでいきました」で終わっていたことだろう。回復や再生が見えているのに、そこまでたどり着けない。物語は解体していくばかりで、再構築されていかない。だからこそ小説として成り立っているようにも思える。登場人物も読者も救われない。


  最後に、村上春樹の『羊をめぐる冒険』の一節を引用する。

>「しかし正直に話すことと真実を話すこととはまた別の問題だ。正直さと真実との関係は船のへさきと船尾の関係に似ている。まず最初に正直さが現われ、最後には真実が現われる。その時間的な差異は船の規模に正比例する。巨大な事物の真実は現われにくい。我々が生涯を終えた後になってやっと現われるということもある。だからもし私が君に真実を示さなかったとしても、それは私の責任でも君の責任でもない」
  答えようもないので、僕は黙っていた。男は沈黙を確認してから話をつづけた。

  『羊』は春樹にとって3作目の長篇小説である。
  評論家の加藤典洋によれば、この引用の中で語られている「船」とは春樹の中にある物語、平たく言えば村上春樹の小説群である。まだデビューして3年ほどの小説家が、自分のことを予言している。もちろん1つの仮説である。この仮説を立てることで、のちに続く春樹の膨大な小説群を説明することができるのかもしれない。


  島本理生の「船」は、どれほどの規模を持つのだろう。
  ただの女流作家では終わらない、終わるはずもない、終わって欲しくもない、それが今日の時点での僕の評価だ。きっと、これからも付き合いは続く。

essay エッセイ  
これまでのエッセイはコチラ