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古い日記を探している。
古いというのは、今日のようなウェブ日記全盛期(もう過ぎたか)のものでは
なく、もともと日記がそうであったような
「他者に読まれることは一切前提にしていない」
日記のことである。探しているといっても真剣に探しているわけでも
なくて、書店の本棚という迷宮をさまよっているうちに、もしそこに日記という
洞窟があれば好んで入っていく、くらいの探し方だ。
『二十歳の原点』高野悦子は、学生運動が真っ盛りであった1969年に書かれた
手記である。
その内容の紹介は「ここ」の日記に譲るとして、ここでは日記とその書き手の
立ち位置について書く。著者の高野の手記から、僕の日記の立ち位置を考えるも
のなので、書評なり感想文なりを求めてここに来てしまった人にはごめんなさい
、だ。
>二月二十三日
二月十七日頃を境に、このノートを書くときの私の態度が変化している。以前は
このノートに、胸につまった言葉を吐き出す、ぶっつけることに意義があったの
だが、クラブの人や友人達と話すことにより、その対話の中に自分を正面からぶ
っつけることにより、このノートにはその意義がなくなってきた。以後、二、三
日書かずにいたのは、そのためである。その後の文章は意識化されたものとなっ
て文面に表れている。
注意しなくてはならないことは、吐き出しぶっつけるのは常に己れ自身に対し
て行うものであるということである。他の人間に対しては、いくばくかの演技を
伴った方が安全である。
それからノートには、その日の主な行動、事象、読書の内容を記録しておくと
、後の理解の補助になる。ノートを読んで感じたのだが、イメージが狭小である
。詩の勉強の必要性を感じる。
僕がこのHP「よびわる」で日記をつけ始めたのは2004年の春のことだ。
そのときから、「これは人様が読むものだからな」という意識を強く持つよう
にしていた。けれど、いま読み返してみると、わりにアケスケというか、当時の
僕が「思っていた」らしきことを書いているように思う。上記の引用では「ぶっ
つけることに意義があった」という段階だろうか。
文字なり文章なりにできないことは、考えていないのと同じことだという極論
を僕は持っている。
感じていることは別だ。感じていることを文章にできるのは芸術家くらいだろ
う。一方で、考えていることは、少なくとも整理された状態で考えていることは
、かならず文章にできると思っている。「意識化されたもの」というのは、そう
いう有様のことを言っているのだろうか。
「主な行動、事象、読書の内容を記録」しておくと良い。
これは僕も書き始めて1年ちょっとしてから気がついた。考えたことを記す前
に、考えるきっかけになった事実を残しておくのだ。考えたことの記憶というの
は、それだけでずっと残るものでもない。考えたことの契機と一緒に、自分の脳
のどこかに一時保存されているような気がする。
>四月二十二日
何故にノートを中断したかというと、書き始めたらずっと止まることを知らず
に書き続けそうな気がしたからだ。朝、目がさめたときの感情、意識から始まっ
て起き出したときの感じ、考え、そして新聞を読んで、これもまたその時の感情
と意識、そして記事についての感想・・・・・・書いていたらきりがない。そし
て余りに混沌としていて、まとまりがないので、このノートに向かうのがおっく
うになっていたからだ。
全てを書くまいと僕が思い、それを実行したのは2006年度の日記からだ。
「ずっと止まることを知らずに書き続けそう」と思ったのが理由の第3である
。全てを書ききることはできない。正確にはできるけれど、現実的に無理だ。こ
うやってエッセイを書いている自分をリアルタイムで説明しなければならないし
、そうするためには実際の生活時間と同じだけの時間が必要とされる。そもそも
、全てを記すことに意味はあるのだろうか。
第2の理由は、もっと読者に自由に読んでもらおうと思ったことだ。
3年目の、つまり2006年の日記からは、僕が本当に思っていることはあまり書
かれなくなった。思っていることと完全に逆のことを書いてあるものも多い。こ
の件については、今までも何回か書いたと思う。
第1の理由は、「余りに混沌としていて、まとまりがない」から読者にとって
負担になるだろうと思ったことだ。
僕にとっては、日記は自分の記録かもしれないが、読者にとってはそうではな
い。いったい誰が、他人の生活の全てを知りたいと思うだろう。読者というのは
、書き手が書きたいことを読み取ろうとする存在ではなく、自分が読みたいこと
を読み取ろうとする存在のことだ。読者が読みたいと思う(と少なくとも書き手
が考える)文章を書くのが、人に文章を読んでいただくことの意味の1つだ。も
ちろん全てではないけれど。
>六月二十日
これまでは、このノートこそ唯一の私であると思っていたから、誰かにこれを
見せ、すべてをみてもらって安楽を得ようかと、何度か思った。しかし、今日ぼ
んやりとしていたとき、このノートを燃やそうという考えが浮んだ。すべてを忘
却の彼方へ追いやろうとした。以前には、燃やしてしまったら私の存在が一切な
くなってしまうようで恐ろしくて、こんな考えは思いつかなかった。
現在を生きているものにとって、過去は現在と関わっているという点で、はじ
めて意味をもつものである。燃やしたところで私がなくなるのではない。記述と
いう過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何
の意味もなさない。
このノートが私であるということは一面真実である。このノートが持つ真実は
、真白な横線の上に私のなげかけたことばが集約的に私を語っているからである
。それは真の自己に近いものになっているにちがいない。言葉は書いた瞬間に過
去のものとなっている。それがそれとして意味をもつのは、現在に連なっている
からであるが、「現在の私」は絶えず変化しつつ現在の中、未来の中にあるのだ
。
現在とは過去の集積でしかないこと。
日記をつけるとき、そこに記された文章はいつも過去になっている。体験しな
かったこと、通り過ぎなかったことは書けないことを自覚する。いやもちろん、
実際にはいくらでも「先書き」することはできるだろう。何度かそうしたことも
ある。
でも、その現実より先に書かれてしまった日記は、まだ起こっていないのに過
去になってしまっている。
日記を書いている僕が世界と日記を隔てるフィルターになっていて、たとえ「
未来の世界」を書いたところで、「現実の僕」を通過させてしまえば、日記は過
去のものになる。残った日記は、現実がどうであったかには関係なく、すでに過
去の遺物になっている。
この日記が僕であるということは一面真実である。
この日記が持つ真実は、パソコンの画面の上に僕の投げかけた言葉が集約的に
僕を語っているからである。それは真の自己に近いものになっているかもしれ
ない。言葉は書いた瞬間に過去のものとなっている。それがそれとして意味
をもつのは、現在に連なっているように僕が作為を加えているからだ。「
現在の僕」は常に変化しつつ現在あるいは未来の中にある。
ただ、その僕は過去の抜け殻を意図的に残していく。
セミが脱皮するように、抜け殻を残していく。読者はその抜け殻を見て、これ
が現在の僕だと考える。実は、その抜け殻は作り物にすぎないのだけど、僕はそ
れを読者に悟られないように偽装している。
まったく、自分の真実なんか、他人に公開してどうなるというのだ?
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