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最近はこんな読書31 12月26日
  自分の姿を著者に見ることがある。
  正確に言えば、自分の姿をそこに投影させることができる場合に、「この本が好きだ」と言えることになる。もちろん1冊の本を好きになる理由はこれだけに限らないけれど、

「僕・私がここにいる」

と感じるのは、読書好きでない人にはなおさら大切なことだろう。今回は、僕がその著者を自分の分身のように感じた2冊のエッセイを取り上げる。



第一阿房列車』  内田百フ

  日本の鉄道エッセイは本書に始まった。
  阿房(あほう)列車というのは著者の造語で、用もないのに鉄道旅行することを「阿房列車を運転する」という。内田百フは夏目漱石の弟子の1人。これといった代表作があるわけでもないが、大正・昭和の文豪の(すこし風変わりな)1人とも言える。書き出し。


>阿房と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考えてはいない。用事がなければどこへ行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。


  個人的に、有名な書き出しだと思う。
  「祇園精舎の鐘の声」とか「春はあけぼの」とか「私はその人を常に」とか「僕は三十七歳で、そのとき」などに匹敵する、とまではいかないけれど、読者にスッと通じる文章である。

  昭和20年代の鉄道風俗もうかがえる。
  内田百フは一等車を好む。二等車(今のグリーン車)は嫌う。根拠は、

>二等に乗っている人の顔附きは嫌い

ということである。一等車というのは、今の寝台個室のようにコンパートメントになっているものらしい。東海道線のようなメイン路線には「一等車つき急行(特急ではないのに!)」があって、東北本線のような1枚落ちる路線にはなかったようだ(注:全てそうであったかどうかは本書だけでは不明)。

>昔の各等列車は一等車が真ん中にあったが、今はそうではない。一等車二等車三等車の順に列んで、下リの時は進行方向の先の方に一等があるから、従って機関車に一番近い。

  へぇと思う。
  今のグリーン車は、おおむね編成の真ん中付近にある。理由はいろいろあるだろうが、乗客の便宜(ホームを長く歩かなくて良い)と安全性(鉄道事故は進行方向前から起きるのがふつう)の2点が主なものだろう。ところが、昭和20年代にはこのように編成の先っぽに優等車両があったのだ。


  どうしようもないワガママ。
  百フ先生のことである。

・早起きするのはイヤだ(出発はいつもお昼過ぎ)、
・座席が汚れているのはイヤだ(旅先で座席掃除用に靴ブラシを買う)、
・二等はイヤだ(ボイに頼んですぐに席を作らせる)、
・夜は酒がなければイヤだ(夜の車内はいつも食堂車で飲酒)、
・温泉はイヤだ(入浴は好き)、
・付き添いの「ヒマラヤ山系」君のカバンが古いのがイヤだ(自分の靴が古いのは問題としない)、
・宿の女中の態度が悪くてイヤだ(お絞りくらいもう1本持って来い)、
・地元民の接待のために宿から出るのはイヤだ(接待する側を宿に呼びつける)

はっきり言ってメチャクチャである。執筆当時、すでに還暦を過ぎていた先生ではあるが、幼児の要求レベルである。

  それが良い。
  鉄道の話とは全く関係ないことに描写の多くが割かれる。その内容は「私はそういうのはイヤだ」というだけのことなのに、独特のユーモアがあるのか笑える。しかも、しつこい。どこまでもページを使って、鉄道以外の話題を続ける。気に入らないことがあると、どうしても書かずにはいられないらしい。早い話、

百フ先生はどうでもいいことにしつこく拘る人

なのである。今も昔も、テツとはそういう人種なのかもしれない。



やっぱりだらしな日記+だらしなマンション購入記』  藤田香織

  だらしな日記は当然『更科日記』の本歌取りだろう。
  何がだらしないのかと言えば、著者の生活である。標準体重を20Kも超えながらダイエットを決意しつつ過食、そういう自分がイヤで逃避行動は「ねずみ王国」。TDRのことである。お前なぁ、30代半ば独身バツイチ女子がそんなことでいいのか。

  だらしなさも壮絶である。
  書評家すなわち物書きだから生活にリズムがないのはわかるけれど、その日の第1食が午後4時とか、そんなわけねーだろうとツッコミたくなる。掃除は2ヶ月していないとか、風呂で湯船につかるのは1ヶ月に数回とか、徒歩10分がつらくてタクシーに乗るとか(ダイエットはどうなったんだ?)、もうメチャクチャである。

  毒舌も光る。
  柔道のヤワラちゃん(田村亮子)の結婚報告記者会見について。


>うっかり見てしまったその記者会見で、彼女は「感動を与える家庭を作りたい」とニコヤカに語っていた。神よ、なぜ私たちは彼女から感動を「与えられ」なければいけないのでしょうか。与えて頂かなくて結構なんですけどー。辞退したいんですけどー。正直この手の発言にいちいち「どうよ?」という自分もどうよ? と思うのだけど、それにしたって「与える」はないでしょう。どんな高みにいるのか。雅子様だってそんなことは言わんぞ。


まったくなあ、あの女、調子に乗りすぎだよなと僕も思う。僕も5年くらい前に「どうせ引退したら参議院に立候補してダントツで当選するんだろ」みたいなことを書いたと思う。しかし、「雅子様」まで持ってくるかよ。


  本書の後半にあたる「購入記」もおもしろい。
  とくに、「30代独身女子がマンションを買う」という話題で、こういった買い方を目撃(じゃないけど)できるのは非常に珍しいと思う。ネタバレを避けるべく留意して、少しだけ触れよう。モデルルームに入る瞬間の記録。

>・・・(←ここがネタバレになる)ので、私は靴下を履いていなかった。10月なのに裸足。知らなかったとはいえ、分譲マンションのモデルルームに来るのに裸足。後悔したものの、時既に遅し、である。

  本当かよオイ(-_-;)
  いくら何でも、そりゃ「だらしな」を通り過ぎて人としてどうなんだという行動である。そして、彼女はこの物件を契約するのである。なお、この引用文の「知らなかったとはいえ」の部分もネタバレになる。ここまで読んできて、この物件を買うことは流れで示唆されているにせよ、

「本当にこのヒト、これ買っちゃうんかい? だらしなも限度あるだろ

と心配になった。ま、買っちゃうんですけど。


  購入が決まってからの記述は微妙だった。
  同じ経験を持つ僕としては楽しめたけれど、一般的には冗長な気もする。ところで、僕も全く同じ話題をエッセイにしている。「家探しの詳細 その1」から始まるシリーズである。本書と僕のエッセイを読み比べると、

「これってこういうことだったのか(本書を後に読む)」
「短縮すればこうなんだね(僕のエッセイを後に読む)」

という感想が得られると思う。人は、自分に似たモノや人を愛するか憎むかのどちらかを選ぶという。幸いなことに、本書に関して僕は前者だった。

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