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文章には仕掛けがある。
新聞記事のような情報を伝えるためだけにある文章は別として、書かれたもの
には書いた者が意図的に操作した部分がある。もっと書かないとハッキリしない
のに書かない、というパターンが代表的だ。
ところが残念なことに、書かれていないところに書き手の意図があるという、
いわば読解の基礎を入手していない人が増えた。
書かれていないところをどう補うかが読み手の義務なのである。もう少しポジ
ティブに言えば、読み手がそれぞれに足りない部分を補って読むからこそ、文章
読解は楽しくなる。ウラを読めとか行間と読めという話ではない。読むというこ
とはかなり能動的な行為だ、ということである。
そのあたりの機微が必要とされる(と少なくとも僕が考える)小説1つとエッ
セイ1つを紹介します。
『ロックンロール』大崎善生
タイトル「ロックンロール」という小説を書く小説家自身を描く一種のメタ小
説。
メタ小説というのは一般的な言葉ではない。大まかに言えば「その中に小説が
出てくる」小説とか、「その中に著者本人が出てくる」小説だろう。マンガで例
を挙げれば、手塚治虫の『ブラックジャック』の中に著者の手塚自身がよく登場
する。この場合に
「『ブラックジャック』はメタ漫画である」
という表現が可能になる。正統な手法とは言えないにしても、小説なり漫画なり
が人の手になるものであると明示することになり、ある程度の読書経験がある人
なら「ああ、この手ね」と思うことだろう。「メタ小説」という言葉それ自体は
文学部出身の人だと使わなくもないけど、普通は通じないので日常会話で使わな
いように気をつけたい。
それはともかく、本書の主人公は小説家で、上記のように「ロックンロール」
という小説を書き上げていく過程が描かれている。
まだ新人賞を取っただけの駆け出し小説家がパリに滞在して、小説を書いてい
る。そこに2人の編集者がからんできて・・・となるが、ネタばれはやめておく
。もちろん
今のあらすじ説明で「へっ?」と思うところ
があるだろう。新人賞を取って2年、その後なにも書いてない小説家が、出版社
のお金でパリに行かせてもらうなんてことがあるのかよ、という疑問だ。このあ
たりも「メタ小説」であることを著者の大崎が意識して書いているのかもしれな
い。
1つだけ頂けないのは、村上春樹の影響が出すぎていること。
著者は以前から春樹の影響を受けた小説を書いているし、それ自体は何の問題
もないとは思う。それにしても『ダンス・ダンス・ダンス』と『海辺のカフカ』
を想起させる記述が多すぎる。いちいちここで具体例を挙げるという無粋なこと
はしない。というのは、また別の角度からすれば、本書は上記2冊をメタ小説と
して再構築した、という好意的な評価も可能であるためだ。だからイチガイに「
頂けない」とは言えないのかも。
『枕草子REMIX』酒井順子
『枕草子』の教科書に載っていない部分の魅力を取りあえようとするエッセイ
。
リミックスは音楽用語で、オリジナルのものをツギハギして総体を伝えようと
すること。酒井は「待つ」「下種(げす=身分の低い人)」「ブス」「おしゃれ
」などの項目を立て、清少納言が実はこういう人間だった(のではないか)と紹
介している。念を押しておくと、これが学術的に正しいかどうとかという議論を
待つものではなく、同じ随筆家として酒井が『枕草子』または清少納言と自分(
酒井)の共通点を探してみようとするもの。
興味深いのは、酒井が清少納言を呼び出して会話をする部分。
「私(酒井)はイタコじゃないので」その会話は完全な酒井の創作であるのだ
が、この中にこそ酒井が書きたかった清少納言=酒井の様子があるのではないか
。
>
清「その手の事情を鑑みながら読んでもらってもいいし、単なる私の身辺雑記と
して読んでもらってもいいし。でもとにかく、何かを伝えたいとかモノ申したい
と言うより、ただ書くのが好きで、書かずにはいられなかったから、私は枕草子
を書いた。そこのところだけわかってもらえれば、嬉しいわ」
酒「ふふふ、多くを語り過ぎないその男気が、私があなたを好む第一の理由だわ
ね」
清「語らない方がいいことっていうのも、世の中にはたくさんありますからねぇ
。私が何を集めたかだけじゃなくて、何を集めなかったかっていうところまで読
んでもらえたら、私としてはさらに嬉しいのよ(後略)」
僕が今まで何度も日記(たとえばここ)やエッセイで取り上げてきたように、
酒井は当代一流のエッセイストだと思う。
「そこまで書くか」という毒舌系でありながら、読者に類推させる省略の技法
が巧みなエッセイストである。もちろん彼女はそれを意図的に、あるいは意識す
ることなくそれをやり遂げることができるわけだが、エッセイストとしての自分
の姿を『枕草子』または清少納言の中に探そうとしたのではないか。
本書の最後は『枕草子』または清少納言ゆかりの地を訪問する旅行記である。
清少納言の墓は現存していないし、彼女が祀られた寺などもない。「その手の
ものとして存在する」のは泉涌寺の歌碑のみである。この歌碑の記述で本書は幕
を閉じる。
>「良い場所でよかった・・・・・・」
と心の中でつぶやきつつ、私は石の塊の前にしゃがみ続けていたのでした。友
人と、久しぶりに会えたような気分で。
酒井が「友人」としているのは、つまり酒井自身のことなんじゃないかと。
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