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東日本大震災から1か月だ。
あらためて犠牲者に哀悼の意を伝えたい。被災者にはお見舞いを申し上げたい。僕のようなプチ被災者には「お疲れさま」と言いたい。関西方面に多いと思われる、とくに関係なかった人には、まあ別にいいけど義援金をお願いしますと頼みたい。
何も終わっていない。
復興が始まっていないという抽象的な意味だけではなく、余震も終わっていない。節電に関する諸問題で明らかなように、すべての物流は被災地とは言えない僕の済む地域でも滞っている。被災地のほうはもっと悲惨である。たとえば、
4月7日の余震で停電が再びやってきた
ことなんて、想像もつかないことではないか。何も終わっていないのである。
ここで僕ごときが感傷的なことを書いても意味がない。
ただ、あまり若いとは言えない僕が若い人に伝えたいことはいくつかある。書けばキリがないので1つに絞る。
「他者の痛みを想像できる人間になってください」
僕は、完全にはそうなれなかった。だから自戒をこめてそう伝えたい。
簡単な覚書を残す。
最初の揺れで「死んでたまるか」と思ったことは当日の日記に書いた。当日はものすごく混乱し、怯えていて、それでも書かなくちゃいけないと思って必死で日記を書いた。何があろうと読者はそこにいるのだし、
読者と僕の関係は僕が書くことでしか維持されない
と思ったからだ。ツイッターでつぶやくのではなく、まとまったコンテンツ=文章のかたちで読者に何かを伝えるのは、僕が選んだ道である。怖くたって、五体満足なら書かなければいけない。
どういう恐怖だったか?
余震は言うまでもない。最初の揺れのあとで何よりも優先したのは、水汲みだった。ライフラインが止まってしまったら、避難生活が確定する。そうなる前にできることはたくさんあるが、急務は水汲みだった。空のペットボトルには浄水器の水を、あらゆる鍋には普通の水を。水がなくなることが、最初に恐れたことだ。
不思議なことがある。
余震が来るたびに、僕はやたらとペットボトルの水を飲んだ。ノドが乾いてしょうがなかった。3時間で2リットルくらいは飲んだと思う。よく晴れた初春の夕方で体が乾くはずもなかったのだけど、水を飲みたくてしょうがなかった。あるいは、
水があれば命をつなぎ止められる
と無意識に思っていたのかもしれない。
千葉県の北西部に住む人しか知りえなかった恐怖。
市原のコンビナートの爆発である。音は聞こえなかったけれど(救急車が行きかっていたので)、
まるで原爆のようなキノコ雲が上がっていく
さまを見た。当日の夕方4時過ぎだと思う。だんだん暗くなっていくなかで、もちろん絶え間ない余震に囲まれて(数分に1回と感じたが、もう少し少なかっただろう)キノコ雲を見るのだ。TVはシリアスな被災地のレポートで忙しいし、『2ちゃんねる』を見ても確証は得られない。これはひょっとして、
俺が終わるのではなく、この国が終わるのかな
と覚悟したことを告白しておく。本震も怖かったし、余震はさらなりだし、絶望感こそなかったにしても、あれほどの恐怖を感じたことはない。
これ以上を書いても意味がない。
感じたことを伝えきれないという、文章をかくときに常に覚える虚しさを感じているからだ。それでも、何とかして書こうとするのが、僕に限らない「ものを書くのが好きな人」の特性である。最後にお願いをしたい。
1:節電を徹底してほしい。
→本当の苦難はこれからやってくる。節電が当然という空気を作っておいても、こらえきれないほどの状況が7月から出現する。3月のような、ヌルい計画停電で済むレベルではない。慣れるには、3カ月というのは程よい時間である。
2:被災者のために増税を甘受してほしい。
→震災国債の発行では追いつかないし、問題を先送りしても意味がない。ほんの数年ほど、広く浅い負担を実現しようではないか。国民1人が1日100円程度の負担でも、国全体では大きな金額になる。
3:「いたわりあって」を心のキーワードに。
→天皇陛下の言葉である。「がんばろう、日本!」ももちろん良い言葉だが、それにはスローガンという役割を与えよう。心に僕たちが留めておくべきなのは、「いたわりあって」という心温まる言葉である。友人や知人や家族は自分を裏切るかもしれないけれど、自分の心だけは自分を裏切らない。まさにうってつけの言葉だ。
何があっても、立ち上がろう。
こんな大震災があったところで、生き延びた僕たちには力がある。もう1度やり直そう、きっとできるという根拠のない自信が僕たちを支える。
僕たちは、まだここにいる。
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