予備校講師でわるかったな!





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essay エッセイ
市進予備校での17年間 1月27日
  17年のうち、9年分は日記に書いてきたことになる。
  解雇決定前にも後にも様々なこと(称賛もあれば批判もある)を書いてきた。読んで気分を悪くした 人もいるだろうが、

そんなことは読者の勝手であり自由である

と考えている。個人情報を漏洩させておいて何の謝罪もないのには、ほとほと呆れたが。


 愛情と憎悪はつねに表裏一体であり、愛すれば愛するほどに憎しみも育ってしまう。
 愛を語るのはたやすいことで、読者の共感を得るのはやさしい。憎しみを語るのは苦痛で、読者の共 感を得るのは難しい。もし道が2つあれば、僕はより困難なそれを選ぶ。

 ちゃんと書かなければいけなかった。
 僕はそれだけ市進予備校を愛してきたのだ。その軌跡に反省はあるが後悔はない。これからも文章の 背景として語ることはあれ、固有名詞を出すのはこれが最後になる。ここで17年間の軌跡をまとめて終 わりにしたい。きっと長くなるだろう。



 1995年秋。
 採用された。筆記試験はけっこう難しかったし、模擬授業の題材も同じように感じたが、いまだった らどうかなと思う。その2年前に受けた中小予備校とは問題の質がまったく違ったことは確か。若かっ たし、予備校も人材を多く必要としていたから採用されたのだろう。

 授業研修があった。
 僕と同じ立場の新米講師が、みんなの前で授業をするという恥ずかしいもの。どの講師も20〜30代だ った(僕は25歳)からまだ耐えられたが、これ辛いよなあとは感じた。ただ、正直に言うと、

思ったよりもみんな授業が下手くそ

で笑えた。目くそ鼻くそを笑うという下品な言い回しを地でいってしまった気もするが、かなりひどか った。上記のように予備校が上昇気流に乗っていたから、

少しでも見込みがありそうなら採用してみるか

という方針だったのかも。良い判断である。育てるだけの余裕があったとも言える。


 なお、このとき採用された大まかな人数は知っている。
 企業秘密だろうし曖昧なことだから正確な数字は書かないし書けない。この時点の新人講師(仮に 100人としよう)がその後どうなったか? 

 2000年には、80人くらい消えた。
 2005年には、10人くらい残った。消えた人の90%くらいはクビだと思う。同じく10%は自分から辞め たか、他の予備校(ほぼ全て大手)に移っていった。2012年だと、残ったのは5人くらいだろう。僕は その最後の5人に入り、最終的には残り大勢の中に加えられたことになる。

 市進のような立派な中堅予備校でもこうである。
 だから、予備校講師になりたいと言ってくる人には、申し訳ないけどこう言ってきた。あのね、大手の 何とか先生(ほとんどの人が90年代前半のサテライト系講師の名をあげた)にあなたが憧れるのはいい んだけど、あんなのプロ野球でいったら

メジャーリーガーのレベル

なんだよ。ふつー、クビになって人生おしまいなんだよ。やめておきなさい、と。もちろん、2007年あ たりからは「予備校講師志望」なんて絶滅危惧種になったけれど。


 年が明けてから試運転としての教壇に立った。
 千葉校の2EB23。2年生の3学期増設講座だ。これは完全な試運転で、のちの仕事には繋がらな かった。しかしこういった試運転は、僕のようなキャリアの浅い講師(このとき業界2年目が終わると ころ)には有難かった。今はまあ、増設講座とかありえないからムリだろうけど、市進の講師の使い方 の良いところだ。



 1996年が本当のスタート。
 市川校で3年生・2年生・1年生を2コマずつ(全て別のクラス)。5月ごろの最初のアンケートが 講師平均より少し下で慌てた。ちょうど独り暮らしを始めた年度だったので、最初の正念場が来た。負 けるわけにいかない。

 風向きは2学期当初に変わった。
 初講で他クラス(他のクラスの生徒が講師を変えるための事情などで受講すること)の生徒様が20人 くらい来た。一気にブレイク。11月の3年生のアンケートは2.2くらい。大まかに言えば講師の上位2 割くらいまで登り詰めた。しかし時給はたいして上がらず。高級幹部によれば、

>遅くても夏に人気になってもらわないと(時給は大きく上げないよ)

とのこと。そっか、そりゃまあそうだなと思った。


 アンケートの話。
 ずいぶん昔にエッセイでも書いたが、その後やや事情は変わった。講師の平均値は、2005年ごろから インフレ化した。20世紀なら部長級が接待にやってきた2.2前後が平均になった。時代が流れて子ども が優しくなり、

いたずらに低い数値をつけることがなくなった

などの理由が考えられる。言い換えれば、予備校に責任を転嫁したがる生徒様が来なくなった(そのぶ ん生徒数が減るのだが)こともあるだろう。

 僕自身は、2006年〜2007年あたりに何度か平均値を割った。
 と言っても「俺2.3で平均値2.4に勝てなかったw」というレベルで、同僚諸氏も同じような話で大笑 いしていた。ん、このあたり、一般的な予備校講師の人にはわかりにくいかな。単純化すると、

市進の2.4=不満・普通・満足の3段階で、不満0%・普通20%・満足80%

といったところになる。5人に1人くらいは「普通」にしなければ、宗教と同じじゃないか。


 疑問なのは。
 アンケートの数値がウナギ昇りなのに、生徒がどんどん減っていったこと。それでは、

講師は何に注力すればいいのかわからない

ではないか。アンケートが全てでないのは自明だが、教えた生徒様の合格率が正確に測定できるわけも なく(たくさんの教科があり、合否それ自体にも多くの要素がある)、講師としては

アンケートがそこそこなら一応は大丈夫

と考えるのは自然だろう。他に頼れる客観的な数字もないわけだし(注:大手と違って授業以外の貢献 アイテムはほとんどない)。

>どれだけいい授業をやっても、生徒が減っていく。

このころから講師間でよく聞かれる言葉になり、その後は話題にもならなくなった。

 とり方を変えれば、少しは状況が変わったかもしれない。
 質問項目とか、回答の段階とか、時期とか、記名制にするとか。そのあたりを考えるのは正社員の仕 事なので、僕には何とも言えない。ただ、この10年足らずで言えば

・オプション系講座でアンケートを取らなくなった 

くらいの変化しかなかった。顧客ニーズをつかむ方法は他にもあるだろうが(わしらが知らないだけで やっているのかも)、せめて何かしらの改革をすれば良かったのに、と思う。



 1997年からが本格シーズン。
 翌98年から2001年までが僕の人気のピークだった。なにより市進自体が好調だったし、自分で言うの も変だが、ハイパー人気講師だったことに間違いはない。なにしろ、直前講習で

担当16クラス中13クラスが即日締め切り

だったくらい。どれも定員は100人前後である。この時期に何人もの講師を屠ったはずだが、お互いさ まなので恨まれても困る。

 良くも悪くも、僕はビッグネームになった。
 僕の知らない講師が僕を知っていて驚かされることが何度もあった。実力は今と同じで怪しいものだ けど、人気と集客能力はずば抜けていた。このころの貢献度に関して意義を唱える人はいないはず。


 今になって思えば、という失敗もあった。
 大手予備校に移籍するチャンスを逃した。この当時、20世紀が終わるころは大手でも「講師の紹介」 だけで入ることが可能だった(普通に受験しても受かる可能性は今より大きかった)。実際に何人もの 講師から

「××でやらない? 紹介するから」

と声をかけてもらった。感謝している。

 しかし、移籍しなかった。
 理由は2つあり、1つは大手でやれる自信がなかったこと。世の中の道理は「入ってから力をつけて いく」ものなのだけど、若い僕はそれを知らなかった。もう1つは、

市進を信頼していた

からである。生徒数の絶対的な減少は見込まれていた(18歳人口が減るのはすでに決まっていたわけで して)けれど、あと20年、具体的には僕が50歳になるまでは生き残れるだろう、と予想したわけだ。実 に甘い予想だったけど、予想ってのはそんなものだ。


 また、この時期の僕には反省が残る。
 とくに忙しかった99年の前後3年間だ。調子に乗っていたのだろう(注:20代の若い講師にとっては 大事なことである、調子に乗れないようではダメだ)、基本的な勉強が不足した。もちろん過去問の研 究のようなことは日常的にやっていたにしても、

将来の自分のためにコツコツ積み上げる勉強をサボった

ことは否定できない。今やっているような、辞書を引きつつ丁寧に英文を読むといった地道な作業を欠 かしてしまった。

 会社にも申し訳ないことをしたと思う。
 どこかに慢心があったはずで、後述するような2002年以降の生徒減の遠因を作ってしまった。

好調期には不調期の原因が育っている。

この世界の真実を知らなかったのだ。悔やみはしないが、僕はこの経験で多くのことを学んだ。だから 、今のような不調期に、好調期を迎える準備をしている(まだ実現していないにせよ)。


 しかし、会社にも慢心があったはず。
 体験講座で教壇に上がったときのことだ。紹介してもらう前、スタッフがニヤニヤしながら耳打ちし てくる。何かと思ったら

その体験講座とは何の関係もない笑い話

だった。ちょっと待て、初めて予備校に来ている客の前でそんなことするか? 耳打ちで笑顔をしてい る人を見れば、「自分が笑われている」と不信感をかこつだけなのでは。猛烈に生徒数が増えているこ ともあって、油断したのかもしれない。彼に何の悪気もなかったことは事実だが、僕も授業後に諌める べきだった。



 2002年。
 ハッキリと生徒数が減った。あれ、これはマズイとすぐにわかった。上記のような僕の不勉強に気が ついたのはもう少し後だった。もっとも、僕も30代になって以前のような人気を背負えなくなってきた ことは理解できた。どうするどうする、と慌てたが手を打てないのが2004年あたりまでだったか。


 このころの市進は、迷走した。
 ハッキリ言って、その場シノギの対策ばかり打ち出して、どんどん状況を悪くした。長期的視点をい ちじるしく欠いた。1つの例は「クラスアップ作戦」というもの。

>生徒の能力よりも上位のクラスを受けさせて、ヤル気を引き出そう。

大バカである。東大コースを含めて5段階もクラスを設定していたのに、そのきめ細かさが活かせなく なった。無意味に上位クラスの生徒数だけ増えて、実力が伴わない(=ぜんぜん受からない)状況が生 まれた。合格率がロコツに下がった。

 他の例も挙げておく。
 校舎に緑を増やそうといって、教室だの廊下だのにやたらと観葉植物が置かれた。それ自体はアリか と思うが、この政策はたった2年で撤回された。効果検証をやったのかどうか疑わしい。なにしろ、校 舎に緑が減った理由が「コストを減らすため」とされた。思いつきでやってみて失敗、だから撤回では 何の学びも得られない。


 2004年。
 ちょうど「よびわる」が始まった年度だ。激しい焦燥感を覚えた。僕の人気も落ちているけれど、予 備校の人気がそれ以上に落ち始めた。ここで踏ん張れないと2010年過ぎたら終わるぞ、と焦った。初め て書いた日記にも、その気持ちがうかがえる。運があればいいね、君がそれを必要としてるってことじ ゃないけど。


 ここで時給の話題。
 僕の時給に関するウワサは絶えなかったようだ。「あいつはコレコレも貰っているらしい」。いろい ろ聞いてみると、

その金額は僕の現実の金額より3割くらい高い

ものが多かった。僕は95年入社になるから、もともとの時給が(80年代に始めた講師に比べれば)はる かに安かったのである。たしかに同時期スタートの講師よりは多かったはずだが、それだけの活躍はし たのだから当然だ。嫉妬はくだらない。なお、最後に時給が上がったのは2003年度を迎える前。



 2006年。
 駄目なのね、もう。そう思い始めた。目に見えて生徒数が減っていくのに、何もできなかった。会社 も悪かったし、僕も悪かったのだろう。某スタッフに

>どうすれば生徒が増えますかねえ

と質問されたことには呆れた。これでは偏差値が低いわりに努力が嫌いな生徒様の相談である。そうで はなくて、現場に立つ講師に聞くなら、

>どうすれば(いま在籍する生徒の)成績が伸びますかねえ

であるべきだろう。この架空の質問もゆるく、本当はもっと具体的に考えなきゃいけない。未来予想図 を描いておけば、抽象的な質問に意味がないことは明確だと思われる。


 専任制度の話題を書いておく。
 1996年にスタートし、2011年ごろに終わった。講師が進路指導職(カンフェリー)を兼ねるという制 度。導入当初から「あれはまずいんじゃないか」という声が上がっていて、結果はまさにそうなった。 予備校講師は進路指導なんかできるようではいけない、のである。

 会社としては、いろいろな目論見があったのだろう。
 授業がイマイチな若手を育てるとか(何人か授業をのぞいたけど、9割くらいはヘボ以前だった)、 生徒との距離感を減らそうとか、カンフェリー・講師を融合させて経費を減らそうとか。狙いはわから なくもない。しかし、やっぱ駄目でしょと思った論拠は2つだ。

1:授業だけで勝負できない奴が教壇に立っている
→これがジリジリと予備校の評判を落としたはずだ。親しみやすさ・距離感の近さだけなら、学校で足 りるではないか。授業の格が違う、なんか世界が違う、と感じさせなければ、わざわざ金を払って予備 校に来る客はいないだろう。

2:会社の扱いがコロコロ変わった
→最初は「高1・2の下位クラスだけ」。次に「高1・2のみ」。そのうち「高3も下位クラスなら」 。さらに「どの授業でも」。続いて「これからは専任講師メインの時代」。ところが「来年から廃止」 。猫の目政策である。数年おきに扱いが変わり、これも長期視点と効果検証が欠けていた。いちばん迷 惑したのは、安く使われて捨てられた専任講師自身だと思う。


 しかしこのころ(2006年あたり)、市進は画期的なシステムを導入した。
 ウイングネットという映像授業である。賛否両論あったにしても、大成功したし、している。僕にと っては不利だったが、商売を営む会社としては立派なことだったと思う。評価できる。おかげさまで、

2012年に18校舎で行っていたライブ授業は2013年に9校舎に減ることになり、

大きなリストラが発生した。これからは映像授業が主流で、ライブ授業は講師の授業技術を確保するた めだけに行われるそうである。1つの方策だろう。

 僕は映像授業講師には選ばれなかった。
 まあそうだろうな、が正直な感想だ。無難な授業展開を得意にしないと商売的に難しいだろうから( 何しろ日本中で時間と場所を共有しない様々なユーザがいるのだ)、選ばれなかったことに不満はない 。負け惜しみと思って頂いてOKだ。


 僕自身が受験生のころ、某大手で映像授業が始まった。
 1989年のことだ。市進のウイングネットはPC画面で観るものだが、当時はそれほどPCが普及して いなかったから、

本来の教壇に大画面が設置される

という仕組みだった(あれはあれでけっこう大変な投資だったと思う)。カメラワークなどもしっかり していて、テクニカルな意味で不満を覚えることはなかった。

 しかし感じたことは。
 なんだか下らないな、ということ。臨場感が欠如するのは当たり前だし、当時の僕も画像を好まなか ったことはあるにせよ、授業が終わると

なんとなく白ける

ような気がした。受講中はそれほどでもないのに、使用後感がわるい。


 話を市進のウイングネットに戻す。
 映像主流の流れは加速した。僕が嫌おうが何だろうが、現実的なメリットは大きい。部活組の生徒が 受講しやすい。生徒数が1人でも「講座」が成立する。生徒はいつでも休める(あとで観ても同じ授業 を受けられる)。生徒がどんどん減っていくライブ授業に代わるものとして会社がそれを選んだのは、 正しい選択だった。それは認める。ただ、ハッキリしていることは

血の通わないものは教育じゃないし、金のためにそんな仕事をやりたくない

という気持ちである。だからクビになったのは納得しなくても、映像授業を担当できなかったことには 何の不満もない。時間を共有することが、教え教わることだ。



 2009年。
 リストラはどんどん進行し、ついに僕も週3回の出講になった。この件で大きな喧嘩をしたが、その 話題は墓場に持って行くつもり(注:減らされたから怒ったのではない)。

 クラスを減らしても生徒数の減少が追いつかないところまで来た。
 破竹の勢いで生徒が減っていく。比喩が逆じゃないのか。前年の11月くらいに来た依頼書は海浜幕張 校だったが、年が明けたか明けないあたりで

海浜幕張校はZ会コースのみ→通常クラスは設置しない

と決まり、僕には代わりに柏校の講座が回ってきた。その講座はもともと設置の必要がなく、この変更 に伴ってムリヤリ設置したものだった。いわゆる「いらない子ども」の講座だった。

 講師のコマを確保するためだった。
 いったん依頼書を出しておいて、「やっぱあれなかったことに」とはできない(こういうのは市進の 良いところだ)。僕としては当然ながらありがたいことだが、おかしいのは

前年の11月にもなって、新規校舎の設置クラスを正式決定できない判断の遅さ

である。行きあたりバッタリ経営もいいところだ。アマチュアの経営である。


 他にもたくさんあった。
 2012年度で言うと、模試である。どこかの業者と提携したからといって、

その年の5月になってその業者の模試を受講するように宣伝しろ

と言われた。模試はすでに内部模試である定例試験があるのに、だ。模試は計画的に受験するものであ って、急に付け加えて受けるものではない。「大人の配慮で」とか言ってたけど、バカもたいがいにし ろって話である。職務だからリーフレットは配布したが、生徒様にとくに勧めることはしなかった。客 が減って当たり前。



 2010年。
 週2回の出講になった。今だから書くと、この前年に僕は市進への情熱を捨てた。他の仕事があるな らここで去りたかった。あとは消化試合と考えた。具体的には、1年でも長く生き残ろう、

せめて非Z会講師・非映像授業講師の最後の1人になろう

と思った。果たされなかったわけだが、そう思うくらいしかなかった。日記には、もちろんそんなこと を書かなかったにしても。


 出講日数について。
 最高で週4回だった。これは僕が希望したことで、週5日ぶんの日程を市進に対して空けたことはな い(伺い書は2008年あたりは6日全てマルにしていたけれど、そのときはすでに5日も入るわけもなか った)。99年ごろの絶好調期でも同じだった。今思えば、

取れるだけコマ数(出講日数)を取っておけばもう少し長生きできたかも

となるが、これにも後悔はない。仕事は僕の人生の1部であって、僕の人生ではないからだ。


 このころまでに、リストラの現場を何度も見た。
 僕がそうされたように、授業前後にとつぜん(なぜ事前連絡をしないのだろう? こっちは時給労働 者なんだが)高級幹部がやってきて、講師は別室に呼び出され、クビを通告される。好みはありそうだ が、まあ紙ペラ1枚で通知するよりはるかに良心的だ。これも市進の長所だと思う(呼び出す人の心労 も激しいとは思う)。

 すぐにそれだとわかる講師もいれば、そうでない人もいた。
 クビになったよ、と正直に教えてくれる人もいた。以下は詳しく書かない。それなりの重鎮講師が斬 られる現場を見た。決して人気があるわけではないが、実力派。華には欠けるかもしれないが、

講師室に彼・彼女がいると「つまらないことは言えない」と周りが察する

タイプの講師だった。僕は親しくしなかったし、挨拶程度の話しかしなかったけれど、一目は置いてお いた。

 そうか、彼まで斬られるんだ。
 当時の(今も)僕には彼ほどの重みはなかったけれど、

次に斬られるのは俺なんだ

と背筋が伸びた。あんな重鎮まで斬ってしまうならば、僕なんてひとたまりもない。震えはしなかった が、覚悟は決まった。自分から抜ける立場を築かねばならないと思い、その道が途上にあるとき僕に鉄 槌が下された。



 2012年。
 この年度に入る前に、知人や友人に公言した。この1年でクビになります、と。授業はきちんとやっ たし、赤羽校は楽しかったが、

祭りの後の寂しさを見届ける1年

になった。さいわいなことに、他の仕事に活路が見えてきたところで「肩の荷が下りた」というのは正 直な気持ちだ。



 以上が、だいたいの年譜である。
 大まかに言えば、駆けあがっていく6年、なだらかに下っていく5年、諦めを確認していく6年、と いうことになる。僕の業界キャリアは2012年度終了時点で19年、その大半の17年を占めたのが市進予備 校だった。最後の1年は他の予備校がメインだったから、

キャリアの8割を依存させてもらったのが市進予備校

である。多くのものごとと同じように、長くも短くもあった。

 全体として言えば、感謝する限りである。
 僕のようなロクデナシをよくも飼ってくれたと思っている。もし雇ってもらえなかったら、と思えば 背筋が寒くなる。充分とは言えなかったが、そこそこのお金も稼がせてもらった。何より、講師もスタ ッフも含め、多くの人にご厚情を賜った。生徒様はもちろんのこと。ありがとう。

 たしかに、気持ちの一部には大きな不満が残っている。
 このHPに記されたのは後半の9年だから、ネガティブな要素が多く見えるはずだ。でもそれは読者 からの見え方であって、

僕自身が見ている市進予備校の俯瞰図

ではない。死ぬほど愛してきたし、愛しているから、きつくなってしまう面もあった。その件に関して は反省している。



 さよなら、市進予備校。
 僕たちはきっと愛し合っていたけれど、とうとう終わりがきちゃったよ。君が僕を捨てるんだけど、 その原因を作ったのは君と僕だ。どちらも悪くない。僕はもう君を責めないし、君もそうでなくちゃい けない。結果だけが、不幸に見えるだけだ。


いろんなところへ行ってきて
いろんな夢を見ておいで
そして最後に
君のそばで会おう

(銀色夏生『君のそばで会おう』)


君に逢えてよかった。

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