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最近はこんな読書39 3月8日

 もともと、日記に載せる感想文だった。
 お題は『ライ麦畑でつかまえて』(原題は『 The Catcher in the Rye 』)。正直言って好きな小説ではないのだけど、感想文を書いているうちに

ゾロゾロと感想だの疑問だのが出てきて

収拾がつかなくなった。過去のエッセイのリンクもあり、『ライ麦畑』だけではなくその周辺の本も巻き込むため、日記に載せると

ゴチャゴチャでわけがわからん

となりそうだ。感想文が入れ子構造になっている(のかな?)ような箇所もある。

 そういうわけで、エッセイとして1つにまとめることになった。
 しかし、読んでいただく前にこういうことを書くのも何だが、そしてそういう性格なので書いてしまうと、

エッセイにしたところでゴチャゴチャは同じ

となってしまった。残念ながら今の僕では整理できないので、そのまま投げ出すからあとは読者様のほうで整理してくださいね、と考えることにした。すでに『ライ麦畑でつかまえて』を読んだことがある人は

>それって、『ライ麦畑』のキモになる部分では?

と思ったかもしれない。すでに入れ子構造になってたりして・・・。



ライ麦畑でつかまえて』サリンジャー(訳:野崎孝)

  約20年ぶりの再読。
 頭がグラグラしてきやがるぜ、チキショウめ、と言えるのかどうか不明な名作。

 村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は2003年に読んだ。
 『よびわる』が始まる1年前だから、過去の感想文はない。『ライ麦畑』はいま手元にある本ではなく、大学時代に人か図書館で借りて読んでいる。つまり僕は

最初に本作を2回、次に春樹訳を読んだ

から、本当は再読じゃなくて4読となる。それでも、よくわからないんだな、これが。

 それでだな、困るのはこいつがホントに名作なのかどうかってことだ。
 言っちゃあなんだけどさ、この主人公のホールデン・コールフィールドって16歳の坊やはさ、分裂病だか神経症だか知らないけどさ、ま、ハッキリ言って

頭イカレテル

としか言えないじゃないか。感化されてチャップマンなんかジョンレノンを銃殺しちゃったんだぜ、すげえよな。君だってそう思うだろう、今の時代だったらスクールカウンセラーを呼べとか発禁にしろとか心の病だからとかサイコパスやパラノイアはポリティカル・コレクトネス的に禁句どころか差別用語ですとか、くそったれなことを言う奴がゾロゾロいるに決まってるんだ。

 あ、今のはホールデン君の口調の真似です。
 似てなかったね、ごめんね。冗談はともかく、これを

青春文学の金字塔みたいに言う

のはどうなんだろうと感じた。単純に中2病のナラティブではないか、とも思う(ただしホールデン君は口汚くても、とてもユーモアのあるやつだ)。

 『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルも謎だ。
 ホールデン君はライ麦畑から飛び出しそうになる子どもたちをキャッチしたいのだから、ホントは

「ライ麦畑で捕まえる人になりたい」=「ライ麦畑でつかまえたい」

のはず。ライ麦畑がイノセンスの象徴とすれば、ホールデン君は(自分と同じように)子どもたちをライ麦畑に留めておきたいのだから、この邦題は誤訳だとする意見もあるとか。

 いや、そうかな?
 ホールデン君は自分が子どもであることを繰り返し認めているから、キャッチャーになる自分と、キャッチャーに捕まえてもらいたい自分に

二極分化を起こしている

ようにも読める(ホールデン君が精神を病んでいるとすれば、離人症かと僕は考える)。すると、ライ麦畑はまともな世界の象徴であり、

まともでない世界に落ちそうな自分を助けて欲しい

というメッセージにも見える。堕ちていく自分をキャッチして貰いたいし、同時に自分で自分をキャッチしたい。ならばタイトルは

『ライ麦畑でつかまえたい』でも『ライ麦畑でつかまえて』

でもOKという話になるような。よくわかんねえや。

 しかしそれでも、だ。
 なんのかんのと、こうして4回も読む小説ってほとんどない。ここに何が描かれているのかどうしてもわからないし、きっと、

それをどうしてもわかりたい

と感じているからだろう。だからまあ、やはり不朽の名作の1つなのかもしれない。なお、本書に関係するエッセイは「村上春樹その8」。あれ、そこでも僕はホールデン君の真似をしているな・・・進歩のない奴。中2病が治っていないのは僕だったりしてね。いい小説です。

※離人症かと思ったのは、ほとんどの登場人物が2人セットになっているため。クラスメートは2人、先生も2人、弟と妹(兄のDBは著者のことか?)。ホールデン君がエゴとオルターエゴを抱えていることを示しているのではないかな、と。



翻訳夜話2 サリンジャー戦記』村上春樹・柴田元幸

 2009年11月29日以来の再読(今のリンク先も「村上春樹その8」)。
 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をめぐる対談は、今回のほうがよく理解できた。

 先日『ライ麦畑でつかまえて』を読んだ。
 そこで「なんかサッパリわからん小説だな」といった感想文を書き(注:これが上記のエッセイ)、そういえば俺は解説本(本書だ)を持っていたじゃないかと読み直してみた。なお『ライ麦畑〜』は従来の野崎孝の訳、『キャッチャー〜』は村上春樹の新訳で、元の本は同じ。

 まずは村上の発言。

>(前略)この本はかなり怖い本です。ちゃらちゃらしたブルジョアの坊ちゃんの神経症的うだうだ話というのでもないし、イノセントな若者が偽善的な社会に反抗する話というのでもない。自己というものを、この世界のどこにどのように据えればいいいのかという命題を、真剣に追及している本だと思います。

 なるほどねえ。僕がこの小説に関して不思議に思ったことは、先のエッセイでも書いたように

・成長物語ではなく、ホールデン君は冒頭でも末尾でもまったく同じである

ことだった。若者が主人公ならば、それなりの成長(と登場人物または読者が感じられるもの)と伴に物語が終わるはずだろう。僕のこの違和感に対して柴田の発言。

>(前略)繰り返して読むときのおもしろみもありますね。学習する話は、読み返すと、学習した地点から人物を見てしまいますから、人物に寄り添いにくい。上から見てしまうんですね。でもこの小説はホールデンに寄り添っていくしかない。

 そっかそっか、と腑に落ちた。
 どこまで進んでも未完成であるという事実が、僕が「たいして面白くないのに読むのは4回目だ」なんておバカな感想を書くトリガーになっているんだね。このあとの柴田の仮説

・つかまえることは触ることであり、この小説では触るのは一貫して悪しき行いとされている

も面白かった(だからアントリーニ先生はホールデン君にホモ疑惑をかけられたのだ)。『ライ麦畑』のサブテキストといった位置づけもできる良書だと感じた。



 ということで、やはり(そして当然ながら)この2つの感想文はリンクしている。
 僕はこの順番通りに、つまり『ライ麦畑でつかまえて』を先に『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』を後で読んだ。もちろん

それぞれを読み終えたあとで感想文を書いた

のだけど、2つの感想文はお互いを侵食している。現時点では、この小説に対する自分なりの感想文あるいは感慨が完成していないのは間違いない。

 よくわかっていないのだ。
 しかしそれでもこうしてエッセイのかたちにしてアップしてしまうのは、

感想をまとめきれない自分の混乱を残しておきたい

と考えるからだ。たぶん還暦を迎えるころには(ほんの9年先だが)、この不出来なエッセイを読んで「若かったなあ」と思えるだろう。その時、新たな感想文を書くかどうかは、まだ決めていない。なぜかって、

僕が成長しているという保証はどこにもない

からだ。



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