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下らないことだが |
6月7日 |
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9時半起床。
毎年のように、この時期から腰痛が悪くなってくる。痛くはないがコリが激しくなってきている。腰だけでなく肩もゴリゴリに凝っている。目が覚めているあいだは、そして片手があいた時間は、常にマッサージをしている。
独りエッチならぬ、独りマッサージだ。
下らないことを書いていないで、お昼前に整骨院へ。
昼食用にランチ寿司420円。
明星の「何とか味噌(忘れた)」という豪華なカップラーメンとともに食す。いやにスープが旨いラーメンだった。
食後にさっとネットを徘徊。
徘徊(はいかい)とは歩き回ることです。俳諧ではない。例文も入れておこう
。
A:うちのお爺さん、俳諧が趣味になってねえ。
B:あれ、まあ。アルツハイマーってことかい?
こんな下らないことを書きたいのではなかった。
5月13日の日記で書いた(ヒマここ)『メディア・バイアス』松永和紀につい
て、唐沢俊一が(HPはここ:日記本文は5月31日分)で書いていたのを読んだ
。
>だがやはり、著者に科学の徒特有の“正しい知識を知らしめる”ことが大衆の
啓蒙につながる、という意識があって、その限界も如実に感じてしまう。
「もうマスメディアや有名人などの主張を盲信するのはやめましょう」
と著者はいい、懐疑的精神を持て、自分なりに分析して自分で判断せよ、と言う
が、そもそも、マスメディアや有名人というのはその主張を盲信させる能力があ
るからこそマスになれたり有名になったりしているわけで、簡単にその影響下を
脱せたら苦労はないのである。
僕は以下のように書いている。
>しかし本書を読んで、または読む前から思った(思っている)こともある。
われわれ民間の無知な人々は、メディアが伝えるものを「一応は正しい」と考
えるしかないのではないか、ということだ。眉にツバをつけて、つまり疑ってか
かるくらいの立ち位置でメディアに接するのが重要であるのは間違いない。でも
、やはり庶民は無知・無能・衆愚であるために、「そうかそういうものなのか」
とうなずかないわけにもいかない。
一致しているところもある。
それよりも興味深く思ったのは、唐沢氏の「その主張を盲信させる能力がある
からこそマスになれたり有名になったりしているわけ」という記述だ。僕の感想
文よりも一歩踏み込んで考えているわけだ。かなわないなあ、と思う。
しかし、かなわないからこそ、もっと考えなければいけないとも感じる。
「そうそう、俺もそう思っていた」と言うだけではただのガキ。先に表現でき
ることが発信能力であり、それを鍛える必要がある。もっと勉強しなくては。も
っと考えなくては。僕が文章のアマチュアであるからこそ、プロを超えたいと思
う。
とホメてみたら、唐沢氏がG社の新書で盗作疑惑をかけられたという日記にぶ
つかる。
『漫棚通信ブログ版』(→ ttp://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/ ←コピーして最初にhをつけて使いましょう:個人サイトのため配慮)という、個人ブロガーが紹介した記事を唐沢氏が新書でパクってしまったのだ。ちょいと追いかけてみると、
・『漫棚通信』が「盗作じゃないか?」と唐沢氏にコンタクトを取ったのが6月4日。
・それに対し、直接に盗作だと明言はしていないものの「私のミスだった」と唐沢氏が認めたのは5日か6日(日記自体は6月4日付)
ということ。
『漫棚通信』の主張を見る限り(自分の記事と唐沢氏の著作を比較して紹介している)、唐沢氏の明らかな盗作。
これはまずったねえ、唐沢さん。迅速な謝罪はさすがだけど、きちんと落とし前をつけた明確な謝罪をしないと話にならないだろう。7日夕方の時点でこの件を報道したのは、僕が知る限りY新聞の朝刊のみ。ちなみに唐沢氏はY新聞のライバルA新聞の書評委員であるとか。おっと、イヤな大人の話は昨日の日記だったな。
唐沢氏はその博覧強記で文章をものす作家だ。
自分のオリジナルの意見があるというより、上記のように他者の著作からヒントを得て考え抜いてオリジナルらしい意見を書くことに長けている。それだけに「孫引き(引用の引用)」が多い面があるので、ちょっとギリギリだよな、と思わせる部分もある。
しかし今回は、自身も「参考にしていた」と認めるブログの文章改ざんということで、非があるのは明白。
文章のコピー→「てにをは」入れ替えであるのがハッキリしている。ちょうど1ヶ月ほど前に、同じG社の『裁判官の爆笑お言葉集』に関して「売れる本はスカスカだよな」という趣旨のことを書いていた(これは僕も読後に全く同じことを思ったが→ヒマここ)のも気にかかる。スカスカを真似しようとして、作家として致命的なキズを負ったかもしれない。
もっとも、僕は彼の日記を読み続けるつもりだし、チャンスがあれば彼の本を買うこともあると思う。
世間的な信用と個人的な信用は別のことで、僕は彼に対して後者を感じているからだ。つまり「それはそれ」だ。1つのミスで、人格障害だとでも言い出しかねない「世論」なんてものは関係ない。僕にとって、良い作家の1人であることは何があっても揺るがない。
遅い午後は読書。
『セカンドクラスの添乗員』稲井未来を読了。
団体旅行の添乗員による実情暴露エッセイ。
タイトルはそのまま著者の一人称として使われている。「ファーストクラスだ
と肩肘を張らない」という自虐的自称。とても面白い本だ。
>ここまでくればもう立派なセカンドクラスの添乗員だと胸を張れる、私なりに
設定した一つの目安がある。添乗員の繰り返しての注意を無視したお客様が何ら
かのトラブルに巻き込まれてしまったとき、「ざまあみろ」と思うのでは、まだ
まだセカンドクラスの添乗員ではない。
「ざまあごらんくださいませ」と思えたら、立派なセカンドクラスの添乗員。
ツアーの添乗員の仕事は、幼児同然の「お客様」の子守りである。
全14章のうち12章までが「いかにお客様はバカで無茶苦茶な要求をするか」に
関する具体的な記述である。
ちょうど今世紀に入ることだったか、大学受験で観光学部や観光学科(のたぐ
い)がちょっとした人気になったことがあった。
雑談で生徒様に志望理由を訊くと「いろいろな場所に行けるから」「いろいろ
な経験ができるから」というものが多かった。本書でもその魅力について1章だ
け割かれているが、現実はそれ以外の面が圧倒的に多い。
だから僕はイヤな大人の意見として、
「気持ちはわかるんだけどさ、添乗員やガイドって、そういう夢を見る仕事じゃ
ないってことは知ってから受けなよ」
だとクギを刺すようにしていた(たいていは生徒様にイヤな顔をされた)。
本書はまさにその「夢見るだけじゃ仕事にならない」やっかいなエピソードが
山ほど記述されている。
それでいて著者は「お客様」という呼称を使い続けるのが痛快。どんなにアホ
でもパーでも「お客様」は「お客様」であり続けるのがこの職業の実情なのだ。
1つのエピソードが10行足らずで終わることもあれば、5ページ以上も続く場
合もある。
旅行の現場の細かいやり取りを描写するので表現が難しい(読者からすれば丁
寧に読む必要のある)局面が多いが、文章がしっかりしているので読みやすい。
エピソード的には「グチ」にカテゴライズされるものばかりだが、上記のように
「でも、お客様ですから!」という前向きなところがあるので楽しく読める。
ヒマつぶしのエッセイとして極めて上質。強く、ではないが広く薦められる。
夕方のプールは今日も1キロ。
ずいぶんとヒマな奴だなと思うかもしれないが、ご指摘の通りだ。これだけ泳ぐなら、
「1日500メートル以上でマイルが貯まります!」
というシステムがあってもいいと思う。ないだろうとも思うが。本当に下らない日記ですまない。
ネタに欠ける1日だったので、初挑戦の料理。
ナスのチーズ焼きである。ナスを薄切りにしてオリーブオイルを両面に塗り、塩コショウしてチーズをのせる。実験ということで、5枚のうち3枚にはケチャップをかけておく。アルミホイルにくるんで、熱しておいた魚焼き器で20分ほど蒸し焼き。さあどうだ?
・・・青臭い(-.-)
味そのものは悪くないが、ナスの臭みがモロに出てしまった。
イメージとしては、
・ママが頑張ってみたけどビミョーなので家族は何もなかったふりをしながらTVの話題に移っていくが、それも白々しくてママは「ちょっとまずった」と思いながらも『クローズアップ現代』で年金問題のことが扱われていたので、「ねえあなた、うちは大丈夫かしら?」と話題をズラそうとしたものの、やはり家族は「このナス、せっかくだけどちょっと青臭くなくない?」と困惑を隠しきれず笑顔は戻らない今日の夕餉の食卓はすでに午後8時、気がつけば『木曜時代劇』が始まってしまいもう話題を見つけるより早くダイニングから去らなくてはとみんなが思ったことをママは自覚して私も忘れようと思う8時4分、
というところか。
どうして、ここまで無意味に下らないことを書けるのか不思議でならない。
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