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人はなぜ日記を書くのか 10月14日


  6時半からの2度寝は中途半端。
  うとうとしながら夢を見るのは好きな展開なんだけど、3時間も続くと飽きる よねと9時半起床。風邪の兆候は全くない。それを祝福するかのようなアイマイな曇 り空。タイミングよく布団が干せるわけもなし。


  具がほとんどないウドンを食べてから将棋観戦。
  羽生二冠と中川七段の2回戦。A級以上とタイトル保持者はシードで2回戦か ら出場するから、羽生は今年度のNHK杯では初めての対局。先手の羽生が作戦 負け模様。お前ナア、去年も3回戦でアッサリ負けただろうが。

  たぶん100手目あたりで羽生が「王手・馬取り」を喰らう。
  終わったなあ。僕はアイロンをかけながら、放送時間があと20分くらいあるの になあとボンヤリ観ていた。羽生の得意技のクソ粘り。淡白な負け方も多い棋士 でもあるが、ときどき「どこまで粘るつもりなんだよ」という指し方もする。ケ ツをなかなかまくらないというか(よく読むとすごい表現だな)。

  ところが15分後。
  解説の加藤一二三大先生が

「あぁ、こここ、これは。歩が3枚、3枚、足りてます。逆転ですギャクテン。 ぴったりです。まさかの大逆転、ああこんなことはNHK杯の歴史に残る・・・ 」

と大絶叫(加藤先生、ちょっと脳の血管が切れかけている系の偉大な棋士なので 見逃してあげてください)。コマが一枚も余らない詰み筋に入って、163手目で中 川七段の投了。久々の羽生マジック観戦だった。どの一手が「マジック」だった のか検証しにくいのが羽生マジックである。


  外出。
  タイ料理屋さんらしき店で昼食。ずいぶん前から目をつけていて、タイミング がなかったのだ。日曜日の正午過ぎだからファミリーだカップルだで混んでいる だろうと怖かったが入店。意外に空いていた。エスニック風というんですかね、 そういう落ち着いた店内。喫煙席がセパレートされているのはありがたい。

  鶏肉のフォー。
  フォーはベトナム料理だっけね。まあそのへんです。ちゃんと小皿に生のパク チー(香菜)がついてくる。強烈な匂いで嫌われる野菜で、一部に熱狂的なファ ンを持つのがパクチー。僕は大好き。ニョクマムだのナンプラーだのトウガラシ だの砂糖だので味をつけて食べる。色々な味が混在していて、旨い。

  いい店だ。
  千葉とは思えないほどにインテリアがしっかりしている。様々な茶器が棚に飾 られていて、客に見せるための透明な冷蔵庫にはワインが並んでいる。東京の店みたいだ。きちんと した場所で、きちんとした食事をする喜びがある。この街には基本的に昭和が生 きていて、ときにハワイがあり、場合によってはトウキョウもある。ごひいきに しよう。800円はちょっと高いけど、店員の感じも良かったし。

  スーパー。
  やっとお目当ての食材が見つかって購入。やれ嬉しやと帰宅して夕食用に下ご しらえ。食材の管理には、人生を回していく喜びがいつも同伴する。


  書斎の整理。
  3点セットの机がくせもの。長さは大きいほうから順に150、90、44センチ。5 畳足らずの空間なので、一番小さい机は一番大きいそれの下に配置している。中 くらいの机は脇において、ワープロとプリンター置き場になっている。

  肝心の一番大きい机が物置き状態。
  PCはリビングの机に置いてあるし、予習はダイニングテーブルを使っている から問題はない。ないが、せっかく書斎として窓に面する場所に机を置いたのに もったいないじゃないか、と整理しきり。それでも整理棚が2つ乗っているた め机上を広く使えず、検討課題が残る。適当なところにして読書。


  『人はなぜ働かなくてはならないのか』小浜逸郎を読了。
  批評家の著者による哲学の初歩的な本。あとがきで著者は自分を「もとより哲 学の専門家ではない」としているけれど、普通の市民にとっては哲学の本と言え るだろう。おもしろい。

  表題の「人が働く理由」は本書全体のテーマではない。
  表題を含めた10問を著者が設定し、それに著者が答えていくという形式。問に は「『本当の自分』なんてあるのか」、「なぜ人は恋をするのか」、「なぜ『普 通』に生きることはつらいのか」など、生きていく上で根源的な疑問を持ちなが らも避けて通ることが多い問題を取り上げている。それぞれの問いや答えに関連 する部分もあれば、独立している部分もある。

  正直なところ、今の僕の能力ではきちんとした感想文を書けない。
  読んでいて「なるほど」と思ったり、「そうかな?」と疑問を持ったりした箇 所は非常に多く、だからこそおもしろいと上に書いた。しかし、その感想をきち んと言語化して人に、この場合は「よびわる」読者に、紹介できる状態ではない 。これは本書の責任ではなく、僕の責任である。あくまで私見だが、言語化でき ないというのは理解の鼻緒を握っているが、理解を抱きしめたことにはなってい ない。早い話が、僕の頭が悪すぎて整理して伝えることができないのである。

  第二問「人間にとって生死は何か」から。

>不安とは、さしあたり、意識のはたらきが特定の対象や意味や目的を志向した り、それらにうまく着地することができずに、はたらきそれ自体に作用してしま う情緒の状態と規定できる。ところで「現在」というものが、過去からの「由来 」と未来への「可能性」との不断の出会いの場として構成されるものであるかぎ り、それは、何か特定の、固定した、たとえば「直線上の一点」のようなもので はない。「現在」とは、むしろたえず流動してやまない時の流れについての実感 そのものである。したがって、人間にとって「現在」とは、「不安であること 」以外の何ものでもない。

  現代文の問題文みたいだな(・_・;)
  ま、とにかく良書ということで今日は切り上げる。10年後くらいにはちゃんと 感想文を書けるようになりたいものだ。


  3時過ぎに眠くなって昼寝。
  ソファに2枚の毛布をもちこんであたたかく。ぬくぬく。今日はのんびりして いるなあ・・・と目覚めたら5時。のんびりしすぎだよ俺。ちょっとこれでは日 記として話題が少ないので、久しぶりに手話の話の続き。前回はここ

  手話には2種類あって、1つは日本手話、もう1つは日本語対応手話という。
  このネタは前にも書いたかもしれない。我々健常者が「手話」と聞いて思い浮 かべるのは「日本語対応手話」である。日本文を手話文(←こんな言葉はないと 思うが)に翻訳しているのだろうな、ということだ。

  たとえば、「昨日から働き続けています」という場合に、「昨日」+「から」 +「働く」+「続ける」という手話表現を重ねるというイメージだ。
  しかし残念ながら、この「日本語対応手話」が通じない場合がある。相手が生 まれつき言語を持たない、つまり最初から言葉をしゃべれない人である場合だ。 このときに「日本手話」が必要になってくる。健聴者はろうあ者のために2種類 勉強しなければならないのだ。


  日記に戻る。
  昼間に塩漬けにしておいたそれを洗い、薄皮をはいで、腹骨をすきとり、毛抜 きで小骨を抜く。少量の砂糖を混ぜたお酢をバットに入れ、それを裏表30分ほど つけて、切り分けて出来上がり。さあ、何を作っているでしょう?

ヒント
1:一般に完成品が売られている
2:新鮮な材料が必要
3:アニサキスに当たっても知らない
4:僕はこの2年くらい作っていない
5:材料は秋が旬

  それにしても、こういうのを日記というのかしら。
  もちろん基本的にその当日に起こったことしか書いていない。手話の話題は、 当日書きたくなったこと、あたりになるか。本は読むのに1ヶ月近くかかったけ ど、読み終えたのは今日のこと。料理では、じっさいに「それ」を作っている。 日記というのは、日々書き継がれる手記なんだろうかね。むずかしい。


  一昨日の高級な牛肉は茹でキャベツとともに。
  湯豆腐の違和感もない季節になった。輪切りの白ネギにも力が出てきた。ヌル 燗は兵庫県明石市の『神鷹 純米明石』。ぐいっと押してくる辛さと、「おっ純 米酒だな」と言いたくなるしつこくない後味が良い。これは今年の五本指に入る かも。

  ゆるりと時間が流れる1日だった。
  労働は何もしていない。とても美味しいシメサバだった。
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