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結果の問題でもない 4月28日


  9時起床。

・検見川駅でタクシーを探すが見つからない。おいおい俺たち3人はそもそも車 に乗っているじゃないか、タクシーなんか使わなくてもそのまま直行すれば検見 川浜校の授業に間に合うんじゃないか?

という夢だった。遅刻関係のネタ(の夢)が続いたのは、市進は30日(水)まで 授業があるから忘れるなよ、という自戒と思われる。


  昨晩読み終えた本の感想文をまとめる。


  『父の文章教室』花村萬月を読了。
  芥川賞作家である著者がその父から受けた教育について記す自伝的エッセイ。
  文章教室というタイトルとの整合性は別として、非常におもしろい。

  花村萬月は熱烈な愛読者の多い(であろう)作家だ。
  僕は今までに彼の本を何度も手に取っていて、そのほとんどを買わずにすませ てきた。4年ほど前に1冊だけ買って読んでみたものの、最後まで読み通すこ とができなかった。どうも僕の趣味とソリがあわないのだ。クセがある。その違 和感を少しクセのある比喩で説明する。

・私は30代に入ったばかりで、ベッドの隣には20代前半の若い恋人が眠っている 。そろそろ起きてもいいかなと考える朝の9時前だ。私は自分の背中のあたりに 何かがぶつかる感触をおぼえる。硬く、ごりごりとした、ソリッドな、屹立した 彼の朝のペニスだ。私はそういうものが嫌いではないけれど、今はそうするつも りはないし、もちろんまだ眠っている彼にもそのつもりはない。そこにあるべき ものだと私はじゅうぶんに知っているのだけど、その違和感をできることなら払 拭したいと思う。私は自分のからだをずらす。

  どういう比喩なんだよ、と読者様は思うかもしれない。
  でも、僕にとっては、花村萬月の文章はそんな屹立したペニ スを連想させるものだ。僕はその空想の中で女性になっている。どうしても、そ れは「他者」でしかない。空想している僕は男性なのだ(関係ないけど、ここま で付記を入れないと比喩というのは理解されにくいようだ。その付記で文章が汚 れてしまうような気がするのだけど)。

  という言わば「著者観」を持っていたのだけど、本書はエッセイということで 読んでみた。
  著者が父と接したのはたったの4年間に過ぎず、与えられた教育は文章に関す るものだけではなかった。その教育から学び取ったものが小説家としての著者の 一部を作ったのは明確で、小説家というよりも文章を書く人間の基礎は父親にあ ったのだということが、やはり著者特有のごりごりした文体で語られる。余談め いた部分も面白い。

>あえて強引なことを書いてしまいますが、文とは、あるいは言語とは、具体に 対する抽象性の高さから、絵画や音楽をも内包する力をもっているといっていい でしょう。砕いて説明すれば、あなたの下手くそな絵ではいったい何の木が描い てあるのか判断がつきませんが、松の木と言葉で告げられれば、誰でも脳裏に大 雑把な松の木の姿を想い描くことができる、ということです。

>メソッドは無能な者を掬いあげるための方便のようなものですが、メソッドで 得られるものはせいぜい並の上といったあたりの常識的な世渡りにすぎません。 努力も、同様です。頑張ればなんとかなるなどということを信じているようなの のは敗者です。父の文章教室はそのあたりの陳腐を見事に超越しています。もっ とも能力のない子供にそれを強いれば最悪の虐待となりますが。

  いわゆる「文章読本」としては亜流かもしれない。
  上記のようにメソッドではなく、本質(←僕はこの言葉が大嫌いなのだけど、 とりあえず使っておく)に関わるものごとを語りかけてくる。やや漢字の使い方 に拘りがありすぎる部分が鼻につくかもしれないが、文章に興味がある人には一 読の価値があるはず。文章の上手さというのがハッキリわかるタイプの作家だろ うか。


  衣類の処分。
  今日はなかなか頑張れた。セーター1枚、Tシャツ3枚、タオル4 枚、ハンカ チ2枚を捨てた。もっとも、ほとんどはボロキレとして再利用される。雑巾が傷 んできたから、そろそろ作らないといけないかも。

  室内用のTシャツも限界が近くなった。
  自宅だし下着代わりだし誰かに見られるわけでもないしとしつこく 使うから、

穴が空くまで

着てしまったりする。そろそろ大人なんだし、室内でもちゃんとしたものを着た いものだ。まだ大人ではないと自覚している。


  午後は手話教室へ。
  前回の話の続きで、生徒数が増えないことについての鬼講師T先生の余談。授 業で扱っていることのレベルが高く、少しだけ手話経験のある生徒さんは、違和 感を覚えて参加してくれないことが多い、という趣旨。

  確かに、鬼講師T先生の授業レベルは非常に高いと思われる。
  今日の授業では、何もわからないも同然(よりはマシかな?)の我々に、以下 のような手話をやって見せろと要求するのだ。

「向こうの病院から薬が出ているなら、こちらでは出せないので、あちらの先生 と連絡を取って相談してから決めましょう」

  すごいレベルだ(@_@;)
  ポイントは「相談してから決めましょう」の部分で、何を決めるのか文脈でき ちんと考えてから手話にしろ、というのである(正解:こちらから出すか向こう が出すか;理由=すでにこちらでは現状では出せないと断っている)。

  実際に、僕たち受講者はヒントを頂戴しながら、何のかのと表現することがで きた。
  これは明らかにT先生の授業技術だと思う。正解は何かを教えるのではなくて 、どうやって正解に至るのかを教えるという高等技術である。ただ単に、「それ はこうやります」で終わらせる授業ではない。正解を習ってオシマイなら、高額 な授業料を払う意味は少ない。

  しかしまた一方で、受講者である僕たちには、とりあえず正解を教わりたいと いう気持ちもある。
  考えることの重要性を承知しながらも、そのメリットを承知しながらも、とり あえずの「今日勉強したことのお持ち帰り」をしたいという欲求である。苦手で あるとか、初心者であるというのは、常にそういうウブな部分を抱えることでも ある。

  先生の話を聞きながら、そういうことを考えていた。
  教えるとは何か、教わるとは何か、教えたいとは何か、教わりたいとは何か。 そして、先生と生徒はどこまでお店とカスタマーの関係になっていいのか、悪い のか。明確な結論は出ない。そういうことをつかみたくて、手話の勉強を続けて いるという部分はある。本来的ではないのだが、僕が手話を勉強する動機の1つ だ。


  夜は都心へ。
  例年のこの時期は大学の後輩と麻雀を打つのだが、今年はメンツが揃わずに( 麻雀は4人でやるゲーム:ヒマここ日記)単純に飲むことになった。場所はまた また池袋。田舎者の埼玉県民が集う場所ね。千葉から遠いんだよ(-_-メ)

  と思いきや、とりあえず飲む前に3人麻雀をやろうということに。
  呑み代でも巻き上げてやろうかと思ったものの、2時間半の短期決戦でちょい 負け。僕は確率重視で打つタイプなのに、当然の着手ができない自分にイラつい てしまった。スッと手が動かないのは3人とも同じ条件ではある。それだけに、

結果よりもプロセスに納得ができない

という最悪の負け方だった。金額の問題ではない。


  今年もY君が参加して呑む。
  いろいろと耳の痛い(フリをした)意見を拝聴。エヴァはちゃんと原作を見て 語れとか、「よびわる」閉鎖騒動は迷惑の一言だったとか、予備校業界どころか 塾業界もM&Aの嵐だ、とか。だいぶ酔って、終電で帰宅。それにしても池袋は 遠いね。


追記:エッセイ293「家探しの詳細 その6」をアップしました。
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