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ITに関する本は紹介が難しい。
進化のスピードが速くて、時間の経過に耐えられないものが多いからだ。すでに時代遅れになりつつあるが良書の3冊を紹介。
『ウェブ人間論』梅田望夫・平野啓一郎
『ウェブ進化論』を書いた梅田と純文学作家の平野による対談集。
平野は「こちら側=リアル世界」を重視する立場にいる(参考エッセイは「ここ」)。
>平野
ただ実際のところ何か物を考えようと思ったら、まずその元となるような知識、要するに記憶があって、それに従って考えるしかないわけですよね。そうした時に、改めてそれを確認するような映像なり情報なりがいつ消えるか分からない不安定な状態よりも、手元にあった方がいいと僕なんかは思うんですけど。
この箇所を読んでいて「あ、これは俺も要約したじゃん」と思った。
そうなんだよな、俺って「こちら側」の立場も捨てきれないんだよなと当時の感想を思い出した。平野は本書を通して常にこちら側の立場を貫くが、またその一方で「あちら側の世界」を覗こうともがいている。平野による「はじめに」から。
>私は、インターネットの拡充が現代人の「生」にもたらした決定的な変化について、自分なりに考えを巡らせ、小説やエッセイの形で発表してきた。
一方、梅田は根っからのウェブ住人であり、2002年ごろからブログを運営している(リンクはここ)。
>梅田
ブログを書き始めたとき、自分はいったい何がすきなんだろう、何についてなら毎日書けるんだろう、ということをずいぶん考えました。(中略)読書と将棋とメジャーリーグのことなら、読んだり書いたりいろいろできるな、と。(中略)でもその中でもやっぱり読書だな、読んだ本の一部を抜き書きしたりするのって本当に幸せな時間だなとか、そんなことに思い至るようになった。それは大げさな言い方をすれば、自分で自分を発見したということだったんですよ。
この箇所に当たっているときも、僕は自分がこのHPを始めた動機について考えていた。
本来、無名人が何かを書いたところでそれが誰かに読まれることはない。少なくとも、たった10年前はそうだった。しかし今というかこの「10年後」に生きていればそれは可能なことになったし、可能であるならそこにどういうコンテンツを構築するべきなのか考えるようになった。それは梅田が言うように、「自分で自分を発見」する試みだった。
>平野
リアル社会で自己実現できていないとか、自分の言いたいことを自由に言えないとか、そういう不満の結果として、匿名で、ネットの中に思いを吐き出している人たちもいる。彼らには、リアル社会とネット社会という二分法があって、その境界線が主体の内側に内在化されていて、前方に一つのリアルな世界が開かれ、後ろ側にももう一つ別の世界が開けている。その結節点に、主体が形成されているんじゃないかという印象なんです。
この箇所でも平野は「人間の基本はこちら側なんじゃないか」という姿勢を崩さない。
そういう主張を持ちながらも、平野本人も梅田と同じく実名でブログを経営している(リンクはここ)。だからここで平野が言及しているのは自分のことではなく、匿名でウェブに参加するのと実名による参加ってのは違うんじゃないかと言っているわけだ。
このセリフが出てくる前に梅田は「匿名ブログでもリアル本人の人格で運営されているのが普通ですよ」としている。
つまりこの2人は全く逆の意見を持っている。そして面白いのが、このセリフを受けた梅田の一言。
>梅田
なるほど。もちろんそういうケースもあるでしょうね。
お互いにどうしても譲れない線であるらしい。
このように本書は2人の対立する意見が凌ぎを削る。共通点は、ウェブが人間に何かの(善悪はともかく)影響を与えるという1点につきる。梅田は「おわりに」で以下の趣旨のことを書いている。
>本書は「ウェブ人間・論」でもあり、「ウェブ・人間論」でもある。
さて、あなたはウェブ人間か、それともウェブと対峙する人間か?
『ヤバいぜっ! デジタル日本』高城剛
本を読むときに、全てを理解する必要はない。
もう少しハッキリ言うと、全てを理解できる本は読んでも得ることがない。僕はこのHPを始めてからの2年半(04年〜06年前半)で、およそ300冊の本を読んだ。ときどき遠まわしに質問されることがある。
「どれくらいわかって(理解して)読んでるの?」
もちろん、ただ量だけ読んでいるんじゃないの、というアリガチで浅はかな非難である。読書の経験で大切なのは量ではなく、質ですらなく、だからといって量でもないということを知らないからだろう。
本書は、デジタルとITにからんだ将来の日本のありかたに関する提言書。
未来のことを描いていることもあるし、僕にITやデジタルに関する知識がないこともあって、わかりにくいのなんの。たとえば、「携帯トリプルX」。
>携帯トリプルXとは、いわゆる携帯電話のことだが、しかし、それはすでに単に電話ではない。メールやブラウジングもでき、時には(中略)GPS付きや財布になっているものでもある。これは、もはや電話ではない。だから、この進化し続ける複合機を、便宜的に携帯トリプルXと呼ぶことにする。
読者にとって最初の壁となるのは携帯トリプルXという言葉への違和感と、次に専門用語の難しさであろう。
本書は全編がこの調子で展開するので、ちょっと疲れるという人もいるだろう(僕も疲れたよ)。
ある本にAからGまでの内容があったとする。
ある読者はA・C・D・Fの知識を持っている。B・E・Gの知識がないから、そこをその本で補いながら読むが、どうしてもEの知識が理解できない。でもまあ、全体的にはわかった。AからGに至ったのだろうと。
またベツの読者はA・B・Fの知識しか持たない。
Gは理解できたが、C・D・Eの内容、正確にはその連鎖の具合が理解できない。なんとなくはわかるけど、納得はできない。なんだかなあ、と思う。
本書に対して、僕は後者の「A・B・Fの知識しか持たない」愚者であった。
だから本書を理解したとはとても言えない。でも、Bしか理解できていなかった(かもしれない)読者よりは理解できたというつもりもある。
つまり、本書は多くの読者に満足な読後感を残せない。
もちろん例外はいるだろう。そして、本書を読んで「なるほど、そうだったのか、明日からこうしよう!」と思う読者はなおさら数が少ないだろう。その意味で、本書は誰にでも向く本とは言えないし、シロウト向けに専門分野を説くことを目的とする新書にはふさわしくないという欠点がある。
でもね、僕はこの本を読んで、「C・D・E・Fの内容、正確にはその連鎖の具合が理解」できなかったけど、そこを他の本(など)で補おうと思ったよ。
もし10年前に本書を読んでも、当時はケータイなんてほとんど普及していなかったから、サッパリわからなかっただろう。では10年後はどうなんだろう? 難しい感想文でごめんね。
『すべてがEになる』森博嗣
ミステリィ作家によるウェブ日記。
本書の良さは内容ではなく、ウェブ日記が書かれた時代の古さにある。
著者が現在進行させているウェブ日記は、『モリログ・アカデミィ』として出版されている(ヒマここなど)。
『モリログ』はブログの流行もたけなわと言える2005年の秋からスタートしているが、本書がウェブに連載されていたのは1998年のことであり、書籍化は1999年、文庫化まで現在に近づいても2001年である。
ウェブ日記が当たり前のものになったのはせいぜい2003年、一般的には2004年がいいところで、書籍化ともなれば2005年の到来を待たなくてはならなかった。
ところが著者は、ウェブ日記を書籍化する=お金を取ることに自信を示してすらいないものの、こんなことはそのうち当たり前になると本書のあちこちで予言している。98年の時点で、「仕事の依頼はメールが原則でお願いしたい」とか、「ネットを使えないなんて時代遅れもいいところ、10年もたてば当然のものになる」とズバズバと言ってのけている(注:上記は引用文ではない)。
ただし、本書の内容は『モリログ』シリーズには劣る。
時代的にネット創成期ということもあるのだろうが、ネットでしか見られない表現(たとえば(笑)など)がやや鼻につく。いや、内容というよりも表記にこなれた感じがまだ出てこないのかもしれない。著者が作家デビューしてから2年しか経っていないこともあるだろう。
そしてまた、今も当時も変わらない意図的な激しい発言もある。
自分の小説について。引用中の「犀川」と「萌絵」は登場人物。
>本文に書いてないことは、「わからない」と思ってしまう方が多いですね。勝手に想像して下さいね。文章には、いちいち「犀川が呼吸した」とは書いてないし、「萌絵は今、化粧をしている」とも書かない。「何故、このとき、犀川は気づかなかったのでしょう?」という疑問には、当然、森なりの解釈がありますが、読者もご想像下さい。「書いてないこと」は、「どう想像してもらっても良い」と考えたことで、「作者が考えもしなかったこと」ではありません。テレビドラマとかが、書き過ぎ、描き過ぎ、なのです。
この5冊組(1997〜2001の日記)のシリーズの多くは、文庫では絶版になってしまったようだ。
たまたま1冊目の本書(2冊目が1997年の日記とか)を新古書店で見つけ、最後の5冊目だけ新刊で、つまり普通の書店で入手できた。いくら内容が良くても、ウェブ日記はそこまでなのかなあと思わなくもない。何かで見つけたら手にとってみてください。きっと、読む気がしないだろうから。
さて、10年前っていつですか?
10年後って、どうなっていますかね?
追記:このエッセイを書いたのは2007年の夏くらい。ご存知のように、2008年の夏にはiPhoneが登場した。
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