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映画『ノルウェイの森』 1月7日

お断り:小説・映画『ノルウェイの森』に関するネタばれがあります。


 『ノルウェイの森』は村上春樹の小説。
 これが映画化された。春樹の小説で映画化されたものは5本程度だったと思う。そのなかで『トニー滝谷』だけは観ている(ヒマここエッセイ)。『森』は春樹の小説ではかなりマイナー(というより本流の作品ではない)であると書いたエッセイは「ここ」だ。前置きが済んだので、映画の感想文にうつる。


 もちろん期待していかなかった。
 上記の『滝谷』のエッセイで書いたように、小説と映画は別の媒体だから、同じ物語(ストーリー)であっても別の芸術作品になる。料理と食材の関係と同じだ。雑煮で旨かった餅をウドンに入れてみて、

なんてまずい餅なんだ

と嘆いても意味がない。餅のせいではない。雑煮にするかウドンにするか、選んだのは料理人である。


 率直に結論から行く。
 どうしようもない駄作に近い。真偽はともかく、50カ国で配給されると聞いたけれど、それ大丈夫なのかと心配になるくらい。僕はもともと映画に詳しくないにしても、

「ちょっとそれはないだろう」

と思う箇所が多かった。些細だが気になったことをまずは列挙形式で。

:カメラワークが多すぎる
 画面があっちに行ったりこっちに行ったり急に固定されたり、いやに落ち着きがない。

:音楽が余計
 作った人の趣味なのだろうが、音楽が音声を潰してしまっている個所がいくつか。とくに「直子が死んだ」という大事なナレーションが聞き取れなかった人がいるはず。

:編集が混乱を招く
 後述するように、セリフやナレーションは原作の小説に合わせている。ワタナベが直子のところに「2回行った」というセリフがあるけれど、2人の逢瀬のシーンが点在しすぎて混乱する。


 まあ、そんなことは良い。
 細部を取り上げて批判するのは簡単だし、あまり学びがない。どこが良かったか、見どころか、腑に落ちないのはどういうところか。映画に限らず感想文は前向きでありたい。


 良かったのは、おおむねキャスト。
 肝心の直子=菊池凛子だけが大ハズシという気がする。ハルキスト(春樹を愛好する人)の某知人は公開前に、僕にこういうメールを送りつけてきた。

>直子が菊池凛子って納得いかねえ。処女なのに・・・。

そりゃまあどうでも良い(小説では処女であることがカギになっているけれど)として、もう少し明るい女優さんで良かったじゃないかなあと感じた。「もし小説だったら」という無意味な仮定を導入すれば、率直なところ、

もっと貧乳でガキっぽい女優

であって欲しかった。菊池さんはちょっと色気が強すぎるんだよね。

 素晴らしいのは緑=水原希子。
 躍動感にあふれ、小説とは別にして、再生への光を放つオーラをかもしていた。食べたくなった。じゃなくて、単純に役回りにあうキャラを使ったなあと感じられた。欠点はセリフで、

緑の早口(であろう)な長広舌

を「再現」できていなかった。滑舌が悪いし、原作のセリフを聞き取りやすいものに変えなかった製作者の責任もあると思う。


 見どころは、音声だろう。
 セリフやナレーションは、小説とほとんど同じだった。上記のように画像媒体で再現するには無理のある個所が多すぎたと思うけれど、小説のファンにとっては嬉しいところだ。

 また、性的なシーンも良い。
 具体的には

1:直子とのセックス
2:緑とのキス
3:レイコさんとのセックス

となる。1はもう少し悲しげで良かったし、短い描写で足りるなと感じた。2は実にすばらしい。小説の「火事見物をしながらキス」は火事がなかったけれど(後述)、

お互いに好きな人がいるのに別の人とキスをする

切なさがきちんと出ていた。ああいうのって、人生に多いからな(あ)。3は、まあちょっと的外れというか・・・。


 腑に落ちないところは、たくさんあった。
 キズキの人物像が省略され過ぎているし、とくに小説を読んでいない観客は

なぜタイトルが「ノルウェイの森」になるのか

がサッパリわからなかったのではないか。ワタナベとレイコさんによる「直子のお葬式」のシーンを省略したのは最悪である。

 上記の「火事見物のキス」省略も不満。
 ワタナベが手を切って流血するシーンは再現されているのに、火事がなくて良いのか。どちらのシーンも

赤=直子の消失を暗示

させる大事な部分である。テンポを上げるために省略したと言われればそれまでだが。


何よりも納得できない部分。


 レイコさんの扱いが中途半端だった。
 小説では「6人のうち生き残る3人」の1人とされているから、きわめて重要な人物である。ワタナベが直子をキズキの元に送り届ける手伝いをして、ワタナベを緑の元に向かわせる(それが済んだからレイコさんは最後に旭川へ消えるのだ)役割である。永沢さんが人間の汚さを、ハツミさんが純潔さを向こう側に持っていったように、

死にはしないが消えるべき存在

のレイコさんが冷遇されている。

 原作と大きく異なるのは2か所だった。
 1つは直子がワタナベに向かって感情を爆発させる部分であり(直子の「私に触らないで!」という箇所は名演技だった)、レイコさんとワタナベがセックスをするシーンである。問題は、何より後者だ。

小説:ワタナベとレイコさんは直子を弔うために進んでセックスをした
映画:レイコさんはワタナベを無理にセックスへと誘った

 映画では、レイコさん自らが社会に戻るためにセックスをするのだ。
 ワタナベはそれを不承不承ながらも受け入れる。僕が思ったのは、

「ええ? それじゃあワタナベが『通過させる』ツールになっちゃうじゃん」

ということ。製作者の解釈なんだろうけど、全体の筋をぶち壊すセックスだったと僕は感じた。それだったら、レイコさんは初めから脇役の扱いにして欲しかった。


 と、いろいろ批判的なことを書いた。
 最初に「駄作だ」と書いたのは、あくまで映画としてである。小説のイメージが壊れるなんてことはない。繰り返すと、僕は雑煮に入った餅を先に食べたのである。力ウドンが趣味にマッチしなかっただけである。

 最後に。
 小説を読まずに、つまりこの映画を先に観た人は、かえって小説を読みたくなるんじゃないか。

「え、ホントなのか。あれほど名作とされた『ノルウェイ』って本当にこんなにヒドイのか?」

といった動機で。僕自身は、観て損したなんてまったく思っていない。餅はどっちでもそれなりに美味しいからだ。



追記:永沢さん・ハツミさんのカップルは最高でした。時代考証と思われる大道具・小道具にはちょっと笑ったけれど、名脇役の名演技と言えます。




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