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僕の読書歴もずいぶん長くなった。
本を読み始めたのは小学校1年生のときで(いかに読書家だったかはこちらのエッセイを参照)、20代のころはあまり読まなかった(仕事が忙しかった)が、30代以降はもりもりと読んでいる。大まかに記録が残っているところだと、
2006年から2020年までの15年間で1,889冊
読んでいる(年代順に195・200・192・147・78・77・106・100・82・60・87・81・88・74・140)。
読書は、タテの蓄積でもある。
1冊の読書経験はヨコだ。1冊を読んで面白かった面白くなかった、とやるのはもちろん楽しい。その一方で、上記のようにそれなりに数多く読んでいくと
1冊の本が別の1冊の本に連なる
という経験が溜まってくる。読書とはその本と読書当時の自分の存在を掛けあわせる行為だから、
その積算が今の自分を作っている
とも言える。ということで、今回は過去の自分と読書を照らし合わせた感想文を並べてみる。
『極北に駆ける』植村直己
あまりに有名な冒険家による単独犬ぞり旅行の記録は、37年ぶりの再読。
ナオミのタフネスに感動。
もう植村直己なんて知らない人のほうが多いだろう。
1941年生まれの冒険家。日本人として初めてのエベレスト登頂、世界初の五大陸最高峰登頂、世界初の犬ぞりによる北極点到達。しかし1984年、世界初の冬期マッキンリー単独登頂を果たしたあと遭難し、亡くなったようだ(遺体は未確認だが遺物は確認されたみたい)。
僕が本書を買ったのは中学1年(1984年)か2年のようだ。
ナオミの逝去は1984年2月13日とされているから、そのニュースを聞いてから買ったはずだ。当時、こんなすごい男がいたのかと思い、また今も同じように感じている。
ナオミの目標は犬ぞりによる南極大陸横断。
しかし犬ぞりの知識も技術も何にもないため、言葉もまったくわからないしツテもないのに
独りでグリーンランドのエスキモー集落
に行く。ラジオ体操で子どもたちの注目を集め、生肉を食べ(仲間にしてもらうための試金石だった)、エスキモー社会に入り込んでいく。犬を買い、犬ぞりの練習をして、独りで3,000キロの犬ぞり行に出る。何度かの生命の危機を乗り越え、成功する。
こんなこと、できるのかよ。
要約すればこれだけの話だが、たったの9か月しかかかっていない。何をするにも計画を立て、かつそれが実行できると見た場合だけ行動するといった慎重さがうかがえる。「あとがき」では
>このエスキモーとの一年間をふりかえり、再び南極計画を検討してみると、残念ながら完全な用意がととのったとはいえない。
たしかにグリーンランドでは所期の目的は十二分に達成されたが、南極となると、まだまだ不十分な要素が多すぎる。私はいま、南極の前に、北極海沿岸で、グリーンランドからカナダをとおり、アラスカのベーリング海まで抜ける一万キロの犬橇旅行を計画している。
と書いている。ナオミはこのあとグリーンランド行をおおむね成功させ、しかし南極大陸横断は政治的な事情もあってかなえられなかった。
手元に残っているナオミの本は2冊。
あと数冊買った記憶もあるけれど、とにかくそうだ。中学生のころと同じように、こんなすごい男が本当に生きていたのだ、
それでも死んでしまったのだ
と思いながら読んでいきたい。ナオミの魂よ、永遠に。
『ショージ君の満腹カタログ』東海林さだお
13歳のときに買った本書は何度読み返したのだろうか。
ショージ君シリーズらしい軽いエッセイなのに、内容も文章もクリアに覚えていた。
こうして再読(以上)の感想文を書いていて気が付いたことがある。
僕は中学生のときに買った本を取っておくことが多いみたいだ。親に買ってもらったのか、自分のお小遣いで買ったのかは覚えていないけれど、(きっと厳選して)買ったからにはしっかり読み、覚えるほどに読み込んで、実家から持ち出し、
その後2回にわたる引っ越しのときにも失くさずに
今も残っている。それだけ大事にしたかったんだろう。
1980年に書かれた本なのに、今でもリーダブルなのが凄い。
たとえば選挙。
>この選挙事務所というところは不思議なところで、ふだんなに気なく通り過ぎていたなんでもない商店などが、ある日突然まごうかたなき選挙事務所に変貌してしまうのである。するともう、
(あれ、ここ、きのうまで何屋さんだったっけ)
と思い出そうとしても思い出せないのである。選挙が終わって元の姿に戻ると(なあんだ、この店だったっけ)と思い出すのだ。
ズバリ本質であり、選挙事務所って本当に今でもそうなのだ。これは老後の楽しみに取っておく珍しい1冊になった。
『記憶の放物線』北上次郎
2007年4月30日以来の再読。
内容の説明は上記リンクにあるので省略。14年ぶりに読み返したのだから当然であれ、
俺も当時の筆者と同じような年齢になってしまったのか
と感慨を覚えた。
五十代前半の著者は家族旅行で東南アジアに行く。
妻と大学二年生の長男と高校一年生の次男と一緒に。さすがに家族旅行も残り数回になるだろうと覚悟を決めて。すると長男は同じツアーで知り合った18歳と16歳の女の子と仲良くしている。
>ひらたく言えば、モテているのである。ついこの間まで泣き虫小僧だったのに、一人前に若い娘さんと話しているのである。しかもそれがごく自然に見える。
著者はショックを覚える。
これはたまたま、長男が英語を話せて便利だからと若い娘たちが彼に頼っているだけなのだろう。そう自分に言い聞かせたけれど、やっぱりそうじゃない。私はショックを受けている。
>いまはもう彼が主役なのだ、ということに気づかされたのである。ずっと前から気分は初老で、もう現役ではないとさんざん言っておきながら、いまさらこんなことを言うのも何なのだが、どこかにまだ自分が主役を張っているような錯覚があったことは否定できない。普通に考えれば、恋という文字は大学二年生の長男のほうにふさわしいのは当たり前なのだが、ついこの間までランドセルを背負っていた息子が恋の対象になるとはなかなか信じがたい。それよりはまだまだオレのほうだろ、という気持ちがどこかにあった。しかし世代は交代していくのである。
僕には子どもがいないから、必ずしも著者に共感したわけではない。
もちろん、自分の子どもに「ついこないだまで(子どもだったのに)」と親が思うのは当然だろう。でも、
>どこかにまだ自分が主役を張っているような錯覚があった
というのは、(必死で打ち消すように努めてはいても)僕にも心当たりがある感慨だ。本書の前作にあたる『感情の法則』と同じように、ひたすら後ろ向きなエッセイであれ、とうとう僕にも
後ろ向きであることを認めなくてはいけない時代が来た
のだな、と感じられた。ということで、これはまた還暦を過ぎたあたりに読み返したいので本棚に戻すことにした。そのころの僕は「まだまだこいつも若いねえ」とか「俺も若かったなあ」と思うのだろうか。思っても思わなくても恐ろしい感じもするのだけど。
やはり読書は掛け算なのだ。
僕は今までたくさんの掛け算をやってきて、今ここでその「数字」を確認し、新たな掛け算を求めて次の本(きっとあと10年は再読の本が過半数となるだろう)を手に取る。そして最期に、
たくさんの掛け算をやって来たのだなあ
と思いたい。次の瞬間には、その積算が失われてしまうとしても。
追記:このエッセイを完成させたのは2021年10月。アップが4年近くも遅れたのは初めて。その後1年あたりの読書量は、2021年から2024年まで順に139・108・110・93冊となっている。19年で2,339冊。
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